本書『雲州下屋敷の幽霊』は、谷津矢車という作家が、難しいことを、何でもないようにさらりとやってのける書き手であるということをあらためて実感させてくれた。
通常文庫化とは、単行本で出版された作品の内容に一部加筆修正され、作者のあとがきや解説など単行本+αの要素を加える過程を経て文庫という形で再び出版されることをいう。文庫化に際し、改題や装丁の変更がなされることがよくあるが、本作程腑に落ちた改題や装丁の変更は珍しいのではないだろうか。単行本『奇説無惨絵条々』で読んだ印象と改題し装丁が変更された『雲州下屋敷の幽霊』は、同じ作品なのに、まるで違う作品を読んでいる錯覚に陥ってしまった。谷津さん、すごいよ! すでに単行本で読み終えた方も、ぜひ『雲州下屋敷の幽霊』を読んでみてほしい。
これも最初から計算して仕組んでいたのだろうか、とうがった見方さえさせてくれる。これが谷津矢車という作家なのだ。
2013年に『洛中洛外画狂伝』でデビューしてから、一貫して良質の歴史時代小説を発表し続けてきた氏の作品の最大の魅力は、一見すると単純に見えるが、じつはすごく複雑に練られたプロットが想像を超える形で収斂(しゅうれん)していくところにあると思っている。
題材となる人物や背景となるその時代と歴史を徹底的に調べあげ、様々な形で散らばっている題材に関する真実を拾い集め、そこから事実を見つけ出す作業を繰り返した上で、歴史として残されていない空白となっている部分を作家の想像力で物語に仕上げていくのが歴史時代小説なのだが、氏はこの工程をとてつもなく深く行っていることが各作品から感じられる。
歴史時代小説の中には、残されている真実と真実を繋ぎ合わせる史料の組み合わせの妙を描いた作品も多くあるが、知識を詰め込むあまり物語に入り込めずに読み終えることになってしまうことが多々ある。書かれている題材が、歴史上どのような結末を迎えるのかを知って読んでいることが多い歴史時代小説では、結末で読者を驚かすことは難しい。だからこそ、調べ上げた歴史的な知識よりも、歴史として残されていない空白の部分を、著者がどんな物語で埋めてくれるのかが大事なのだ。
本書においてその空白は、たった一つの文字。そう、たった一文字の空白を埋めるためにこの作品が生み出されたのだ。歴史時代小説というフィールドで、誰も見つけないような針の穴のような空白を埋めることで読む者をここまで楽しませてくれることができるなんて。最大級の敬意を表して、今もっとも憎らしいほど愛しい作家である。
話を本書に戻そう。
本書は、江戸時代に起こった事件をモチーフとした五つの短篇を収録した著者初の短篇集だ。本当は6篇が収録されているのだが、ここでは5篇ということにしておく。
「だらだら祭りの頃に」
父親に借財のかたとして売られ、流れ着いた廓(くるわ)で火付けを起こし島流しとなった大坂屋花鳥が主人公の物語。流された島で出会った佐原喜三郎とともに島抜けに成功し、江戸に戻って潜伏することに。常に飢え死にと隣り合わせの島暮らしで、男に媚びを売り、泥水を啜ってでも生き延びることができたのは、花鳥の心の奥に住む化け物がいたからだった。苦界という言葉は、遊女としての境遇だけではなく、苦しみの絶えない人間界すべてを表しているのかもしれないと思わせられる一篇だった。
「雲州下屋敷の幽霊」
全裸で茶会を開くなど、様々な奇行を繰り返し、晩年は奇怪な妖怪画や幽霊画を集めた「魍魎(もうりょう)の間」で過ごした人物として知られる雲州松平宗衍(むねのぶ)の心情に、背中に刺青を入れた侍女・幸(こう)とのエピソードから迫った一篇である。裸で仕事をさせ、一生消えることのない刺青を入れさせるなど、己の鬱屈を晴らすために常軌を逸した虐待を続ける宗衍。どんな苦しみを与えられても、ひたすら生き続けていることに対する喜びを口にする幸。生きながら死に、怨念に溶け切らない羨みがこれほど人の心を蝕(むしば)むものなのかと恐ろしくなった。