思いがけず訃報を聞き、呆然としながら、小林さんが折々に送ってくださったメールやお手紙を改めて読み返した。文面を見直して、思わずハッと息を呑んだ。
「私の“最晩年”にとりましても……」
「私も“比較的元気”に過ごしております」
そこには、己の最期を意識していると思われる「ことば」が並んでいた。
あの時、私は、小林さんから送られてくる一つ一つの「ことば」の重みを感じ取れていなかった。死期が近づいていることを認識しながら書かれたものだという“意味”まで受けとめることができなかった。
小林さんが急逝されたことを知り、それまで意識することなく眺めていた「ことば」が突然、これまでとは全く異なる感慨を私に与え、懐にズシンと落ちてきた。
小林さんの貴重な証言がなければ、ケンボー先生と山田先生の間に起こった出来事も“闇”のままだった。「ことば」を巡る人間の宿命と本質について描ききることもできなかった。
小林さんは、自身の人生の最後の仕事として、それまで閉ざされていた真相の扉を開けてくれた。その貴重な「ことば」をこの本の中に残すことができたことが、せめてもの救いだった。
本書で私は、「ことば」には実体がない、コロコロと姿を変える、と繰り返し書いた。
だが、だからこそ「ことば」を後世に残すことには意義がある、と思う。時代の変化や各個人が置かれた状況によって、その「ことば」に新たな意味や価値が付与されることがあるからだ。私が小林さんの生前の「ことば」にハッとさせられたように。
人間は生物として「死」からは逃れられない。だが、「ことば」は実体がないだけに再び「生」を宿し、思わぬ時に息を吹き返すこともある。
哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉に、
「事実というものは存在しない。存在するのは“解釈”だけだ」(『権力への意志』)
という有名なものがあるが、「ことば」という存在も、時代や状況の変化による新たな“解釈”によって蘇り、再び“光”を宿すことがある。
晩年、ケンボー先生が突如、周囲に漏らした、
「私は、山田君を許します」
ということば。当時、その発言はあまりに唐突で、そのことばが人づてに山田先生のもとへ伝えられることはなかった。
そのことばは、関係者の記憶にかすかに残ったものの、長らく埋もれていた。
だが、本書に書いた通り、番組の放送後、元・三省堂社員の倉島節尚さんが、私に初めてその発言について語ってくれた。
ケンボー先生はすでに亡くなられていたが、生前の「ことば」が現代に蘇った。
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辞書に秘められた興奮と切なさ
2014.03.06書評
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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