大岡昇平からの問いと、時代やテクノロジーが与える問い。『巨船ベラス・レトラス』の前に立ちはだかるふたつの難問に、筒井康隆は丁寧に答えてゆこうとする。そのいちいちは作品本編に十分わかりやすく書かれているから、ここでは焦点を絞って解説を試みることにしよう。
前作『大いなる助走』と本作『巨船ベラス・レトラス』の、構造上の最大の相違が、後者の持つ“メタフィクション性”にあることは、両作品を読み比べた読者には明らかだろう。モデルと想像される人物があったり、実在する名前をもじったキャラクターが登場はしても、『大いなる助走』は、あくまでフィクションの枠組みをくっきり線引きした作品だった。そのことは、主人公・市谷京二が属する会社や文壇やその周囲の世界と、彼の執筆した問題小説「大企業の群狼」の中の世界とが、決して入り混じらないことでもわかる(混在しないからこそ、自分たちをモデルとしてフィクションを書いたと、市谷は同僚や上司から責められることになる)。
それに対して『巨船ベラス・レトラス』では、作中に登場する小説家たちが侃々諤々と生きる世界に、彼らが自作に登場させたキャラクターが闖入するのみならず、「筒井康隆」までもが闖入する。作者であり語り手であり登場人物である彼は「この小説のテーマがほかならぬ「小説」であり、虚構の中で虚構を考えるというメタフィクショナルな要素を兼ね備えている以上、作者筒井康隆もまた虚構内存在として、ひとりの登場人物として書かれることがこの小説のテーマに相応しいと思う」と宣言し、錣山兼光はじめ作中の小説家たちと語り始める。
小説を構想しているのが「作者」である以上、その作者は語り手や登場人物にいかなる思考を持たせ、どんなセリフを言わせるかの全てを掌握していると言っていい。なれば、作者自身と重なる人物を作中に登場させるのはもちろんのこと、そのような構造自体について他の登場人物たちが自覚的であることも、作者なのか登場人物かも定かならぬ「筒井康隆」と彼らのあいだで対話を試みさせることも、なんら理に背くことではない。
すでに『巨船ベラス・レトラス』以前の作品群から、メタフィクションの試みを通じて「従来の小説の約束ごと、習慣を小説で批判しようと」(「超虚構性からメタフィクションへ」『21世紀文学の創造3 方法の冒険』所収)してきた筒井氏による、そうした構造は、だがいまや、しち面倒な説明や自己言及などなくとも(ついでにかつてはあったほどの前衛感やインパクトもなくなってしまうが)読者に受け入れられ易くなりつつあるはずだ。なぜなら、私たちの生きるこの世界がすでに“そうした特異さ”に慣れようとしているからだ。
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