そうした意味で『巨船ベラス・レトラス』は、虚構と現実の境界が揺らぎつつある今日の世界像を(それは、文芸にかかわる形而下的な側面で言えば、プロとアマチュアの垣根が揺らぐということでもある)、いちはやく感じとった筒井氏ならではの作品と言うことができるだろう。現実をカリカチュアして描いた前作から、フィクションと現実の関係それ自体をカリカチュアして描き、そうすることで現実とフィクションの両方にまたがって存在するものとしての「小説」のかたちを現代的に提示しようとした─などと書けば、江戸川乱歩に見出されて以来半世紀を越す筆歴を持つ老大家には不似合いな紋切型の賛辞と聞こえるかもしれないが、筒井康隆とは徹頭徹尾、そのような小説家でありつづけてきたのだ。
思えば、角川映画が最初に成功させたメディアミックスのひとつ「時をかける少女」(のちに細田守の手でアニメーションともなった)の原作は筒井康隆の小説だし、個人間のコンピュータ・ネットワークがパソコン通信と呼ばれていた時代に、電子会議室(フォーラム)を利用し読者の声を作品にとりこんだ新聞連載小説(『朝のガスパール』)を書いたのも筒井康隆だった。同じくパソコン通信の相互性を生かして、応募原稿のすべてに選考委員が目を通してコメントを出し、公開の最終選考会で受賞作を決める「パスカル短篇文学新人賞」の選考委員席にいたのも筒井康隆だ(賞は惜しくも三回で終わったが、第一回目の受賞作に川上弘美「神様」を選んだ事実だけでも、その賞の有意義かつ生産的だったことがわかるはずだ。ちなみに選考過程で筒井氏は無名の新人による同作を「まさか大作家、老大家の手すさびではあるまいか」と、すでにネットワークを介した匿名性の問題を意識して言及している)。
このように、本解説でとりあげた時代状況に関係する部分だけ抜き出しても、筒井康隆という“巨人”は、大きく変容する時代の「文学」の前衛をまなざしながら、もっともジャーナリスティックにその変化を作品や自身の活動に取り込み続けてきたことがよくわかる。それどころか、時代が彼を追いかけたようにすら見えてきてもおかしくない。
『大いなる助走』と『巨船ベラス・レトラス』の二作品は、「文壇」という、いまや懐かしくすら感じる古き良き時代の記録として、タイタニックの物語のように後世に読まれることになるだろう。それは近い将来、たとえば「慢性的な手元不如意」が「文学界の伝説となっていた」バルザックが、労働者の年収を上まわる債務を翌日までに返済するため、新聞社と高額の寄稿契約を結んだうえで執筆をボードレールの友人に安価で丸投げしようとし、引き受けた男はさらにそれをネルヴァルに孫請けに出した、という逸話(『罵倒文学史』アンヌ・ボケル+エティエンヌ・ケルン著 石橋正孝訳より)のように、いかにも小説家らしい真偽も定かならぬ面白話として、受け取られるかもしれない。
だが、そのころ筒井康隆はとうにその時代の先を行き、「文化的社会現象」や「商品」としての文学も、その流通過程に成立する同業者集団としての「文壇」も、商品生産者としての出版社もなくなった先であってなお、その時代の「文学」の先端を探していることだろう。もしかしたら作品の署名や登場人物は、「筒井康孝」だったり「筒井泰隆」だったり「@Tsutui」だったりするかもしれないが、そのどれもがたぶんツツイヤスタカであるのだし(筒井氏の言い方を借りればそれは「文学的ミーム」だ)、大岡昇平の他界した歳に今年追いついた筒井康隆本人も、やっぱりその中にいるに違いない。
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