- 2011.03.20
- 書評
謎が解けたら、絵画は最高のエンターテインメントになる
文:中野 京子 (ドイツ文学者・早稲田大学講師)
『中野京子と読み解く 名画の謎――ギリシャ神話篇』 (中野京子 著)
ジャンル :
#ノンジャンル
西洋絵画は苦手、という人は少なくないでしょう(それかあらぬか、日本の美術館の多くは赤字の由)。
何しろ長いこと美術教育では、絵は自分の感性で見るのが良し、とされてきました。知識は余計な先入観を与えるだけの不要なもの、作品と向き合うときは白紙状態で、色彩やタッチや空気感を全身で味わえ、と言うのですから、無駄にハードルが上がって大変です。何も感じない自分は途(と)轍(てつ)もない鈍感に違いないと嫌気がさす、あるいはきれいな風景画ばかり見て飽きがくる、ということになりかねません。
絵を「感じて」ほしい、というのは画家側の、とりわけ印象派以降の画家たちの要求にすぎず、見るほうはそれに従う必要など全然ないのです。まして印象派以前においては、そもそも意味あるものが描かれているのですから、その意味がわからない限り、永遠に「つまらない」ままなのは当然といえます。風俗習慣も歴史も宗教も全く違うのに「感じる」ことのできるものなど、たかが知れているからです。幼子イエスと気づかなければ、いやにひねた顔つきの可愛くない幼児だな、と感想を持つのが関の山ではないでしょうか。
もうひとつ、美術館から足を遠ざけさせる要因として、日本人の生真面目さがあげられるかもしれません。絵一枚見るのさえ、「高尚な芸術作品を鑑賞する」と身構え、勝手に苦悶して、さっぱり楽しめない。疲れるから行きたくない、となってしまう。でも小説家が全て純文学作家ではないように、画家も皆が皆ゴッホというわけではありません。王侯貴族や教会からたんまり報奨金をもらうため、今度はどんな工夫を凝らそうかな、と考えて(結果的に)大傑作を産みだす画家のほうがはるかに多かったのです。
考えてもみてください。映画もテレビもない時代、絵画は一大エンターテインメントでした。動画に慣れすぎた現代人は忘れがちですが、当時の人々にとって絵はちゃんと動いて見えたのです。キャンバスの上で進行するドラマにワクワクしたのです。空から飛翔してくる天使の姿に、「おお!」と驚いたのです(『マトリックス』で、キアヌ・リーブスが弾丸をよけた、あの衝撃的映像に「おお!」と叫んだ我々と全く同じように)。
娯楽としての絵を取りもどそう!
声を大にしてそう言いたい。
そのためにはギリシャ神話をちょっぴり頭に入れること。それだけで格段に絵を見る歓びが増します。
十九世紀以前の膨大な数の西洋絵画の大半が、聖書と神話をもとに描かれているからです。物語の宝庫たる神話は、ミステリ、ホラー、恋愛、政治、心理の闇など、ありとあらゆる要素を含んでおり、多くの画家たちに題材として選ばれたのも、むべなるかな。彼らは腕によりをかけて、魅力的な物語にさらに新たな魅力を加えていきました。
たとえばこの本の表紙に使った、ジェロームの『ピグマリオンとガラテア』。なんとセクシーで近代的なヌードでしょう。顔が見えないので、いっそう想像力を刺戟されてしまいますね。女性にとってもこれは溜め息ものの裸身です(こんなスタイルだったらどんなに良かったか!)。
よく見ると、しかし彼女の太腿から下は人間の肌とは違う白さ、石膏の白さです。つまり彼女は、つい今しがたまで彫像だったわけです。ピグマリオンにキスされ、徐々に生きた人間の女性に変わっていく、その過程が描かれているのです。背景には矢をつがえるキューピッドや、この事件に呆れて口をあける仮面など、小道具もひしめいています。
ピグマリオン神話とは――自らが作った彫像に恋し、女神ヴィーナスの祭壇で祈って命を吹き込んでもらい、妻に娶(めと)った男の物語。
どこかで聞いたような気が……。
そうです、オードリー・ヘプバーン主演のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』がまさにそれでした。友人と賭けをして、無知な花売り娘をレディに仕立てあげる、そしてたちまち彼女に恋してしまったヒギンズ教授が、現代版ピグマリオンです。
こんなふうに神話は、絵画ばかりか、小説、戯曲、オペラ、ミュージカルにも使われ、縦にも横にも繋がっていますから、西洋芸術を解する必須アイテムといっていいでしょう。
本書は「オール讀物」で二十回にわたって連載した「絵画で読む神話」に加筆し、再編集したもの。雑誌掲載時には白黒だった図版が、嬉しいことに、全てカラーになりました。またそれぞれの絵には、引き出し線を使って短い説明も入れています。本文にあっても見つけにくい箇所、あるいは本文では触れなかったことなどです。
できるだけいろいろな時代の、いろいろな国の画家たちによる、多彩な作品を選ぶようにしましたが、拙著『怖い絵』シリーズで取り上げた絵(ルーベンス『メドゥーサの首』、ゴヤ『我が子を喰らうサトゥルヌス』、ベックリン『ケンタウロスの闘い』など)は割愛しました。
本書が多くの方々に愛されるよう、わたしもヴィーナスの祭壇で祈ってきたところです(ほんと?)。
「オール讀物」では、四月号から新連載「絵で読みとく聖書」が始まります。こちらもご愛読、よろしくお願いいたします!
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