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日本の美術書と美術展のトレンドをかえた中野京子節のインパクト

日本の美術書と美術展のトレンドをかえた中野京子節のインパクト

文:藤本 聡 (展覧会プロデューサー)

『運命の絵 もう逃れられない』(中野 京子)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #随筆・エッセイ

『運命の絵 もう逃れられない』(中野 京子)

 中野京子さんと私は、2017年に開催された『怖い絵』展の特別監修者と主催社の担当として、まさに運命を左右する日々をともにした“戦友”だと勝手ながら思っている。そんな中野さんから、『運命の絵 もう逃れられない』の文庫化にあたって、解説を執筆してほしい、と突然の依頼を受けた。2021年の秋のことだ。多くのファンを持つ中野さんの本に、私如きが書くのはおこがましく思い、しばらく返事を躊躇っていたのだが、この本のタイトルどおり、「逃れられない」と腹をくくり、冷や汗をかきながらも、なんとか書かせていただくことにした。「解説」という趣旨からはすこしずれるかもしれないが、まずは、中野京子ファンの皆さんが興味をもってくださるであろう『怖い絵』展の内幕に触れたいと思う。

 4年以上が経ってもなお、あの展覧会に至るまでの紆余曲折は、鮮明に記憶に焼き付いている。新聞社の文化事業局で約25年にわたって展覧会を企画し、運営する仕事に携わってきた私にとって、『怖い絵』展は、それまでの展覧会とはまったく違う手ごたえを感じた経験だった。

 中野さんとの最初の出会いは、読者のみなさんと同じく、著作を通したものだった。10年と少し前のある日、書店でたまたま手に取ったのが『怖い絵』だった。一読するや、スリリングな面白さ、切り口の斬新さに衝撃を受けた。これは美術書なのか! そんな思いと共に、瞬く間に中野ワールドにのめりこんでいった。本を読み終えると、長年探し続けた宝物をようやく掘り起こしたような不思議な興奮と確固たる確信を得た。「もしもこの『怖い絵』を展覧会にすることができたなら、美術ファンだけでなく、普段展覧会に馴染みのない人たちにも展覧会の面白さが伝わるに違いない」「これは間違いなくヒット企画になる」……興奮がおさまらなかった。

 というのも、当時の私は、中堅社員として、「ピカソ展」、「ミュシャ展」、「佐伯祐三展」など国内外の様々な展覧会を担当し、仕事の面白さにどっぷりとはまりつつあった一方で、不満ともどかしさを抱えていた。新しい展覧会を担当すると、親しい友人や仕事で付き合いのある方々に見どころや面白さを説明し来場を促すのだが、「展覧会って高尚過ぎて疲れるよね」、「絵の良し悪しを語るのって難しい……」「そもそもどこを見れば良いのかわからない」などなどのネガティブな反応を受けることがあまりにも多かった。とにかく食わず嫌いの人が多いのだ。この漠然とした、しかし厳然とそびえ立つアートの敷居の高さを乗り越えられる画期的な企画をいつの日か実現したい。「だが、それはいったい何だろう……」、「そんな企画を考え付くのだろうか……」と悶々とした日々を過ごしていたのだ。

『怖い絵』を読んで、その答えが天から降ってきたように感じた。従来の美術展は、ある一人の画家の作品を集めたものや、ある特定の時代の作品を集めたもの、ある流派の作品を集めたもの、ある有名な美術館の所蔵作品を日本に借りてきたもの……、などが王道だ。美術書も同様だった。しかし、『怖い絵』は違う。「美しい絵画の奥に潜む怖さ」を軸に、様々な国、画家、時代、モチーフの作品を一冊に凝縮して紹介する。しかも、その解説が知性に富みながらもユーモアあふれる筆致で、まるで絵画の中の世界が目の前で動き出すような臨場感がある。美術の世界で仕事をしているからこそ、その斬新さをより鮮烈に感じた。

 フットワークの軽さが売りだった私は、ただちに企画書を作り上げた。さて、これをご本人にどうプレゼンするか。出した結論は「直接思いをお伝えする」ということ。とにかくお会いして、思いを伝えるしかないと強く決意し、直近で開催される中野さんの講演会に足を運んだ。もちろん、一人の聴衆として。

 文章から受けた中野さんのイメージは、歴史から、文学、オペラまで様々な知識に溢れ、想像を遥かに超える鋭い切り口で絵画を次々に料理する才気あふれたクールな女性。愛想はあまり良くない。そんな勝手な中野京子像を作り上げ、玉砕しないかと内心びくびくしながら会場に向かった。しかし初めて対峙した中野さんはいたって優しく朗らか、かつ華やかな雰囲気の女性で少々面喰ってしまうほどだった。このとき以来、長くお付き合いさせていただいているが、今なお、文章とお人柄のギャップは続いている。

 緊張が過ぎて、そのときの講演の内容は一切覚えていないのだが(すみません!)、講演会終了後、ついにそのときがやってきた。伝手がなくアポなしでの突撃だったが、中野さんと直接話す機会を得たのだ。私はたどたどしくも、とにかく『怖い絵』に感動したことと、『怖い絵』展が実現したらいかに素晴らしいかを熱く語った。「自分なら企画を成し遂げられる」とのアピールも忘れなかった。中野さんの返答は「実現したら面白そうですね」と拍子抜けするほどあっさりしたものだった。しかし考えてみれば、見知らぬ人間からの突拍子もない夢物語には至極当然のリアクションだった。よくぞ私の話を最後まで聞いてくださったものだ。 

 初対面から展覧会が実現するまでには8年を要することになる。その間、様々なことが遅々として進まず、我々は出品交渉の進捗に一喜一憂し、運命を共にする同志として『怖い絵』展の荒波に揉まれ続けたのだった。

 出会いからしばらくして中野さん、兵庫県立美術館の学芸員の岡本弘毅さんと初の本格的な打ち合わせを行った。その席上、中野さんから、展覧会の目玉作品を必ず借りて欲しいとリクエストがあった。具体的には、「レディ・ジェーン・グレイの処刑(ポール・ドラローシュ作/ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)」、「わが子を喰らうサトゥルヌス(フランシスコ・デ・ゴヤ作/プラド美術館蔵)」、本書でも紹介されている「メデューズ号の筏(テオドール・ジェリコー作/ルーヴル美術館蔵)」からどれか1点は必ず、というお題だった。いずれも、出品が叶えば間違いなく話題になる作品だ。しかし、富士山にも登ったことがないのにいきなり「エベレストに一人でチャレンジしてきて」と言われるほどの難題だった。心なしか岡本さんの顔も凍りついたように見えた。果たして、『怖い絵』展は本当に実現できるのだろうか……、心の中には早くも暗雲が垂れ込めていた。

 3点それぞれについて調査を進めると、いくつかの事実が明らかになってきた。まず、「レディ・ジェーン・グレイの処刑」。この作品は大きくて(縦2・5メートル、横3メートルある)輸送するのはかなり困難だが、フランスに貸出した記録を発見した。門外不出ではないということだ。続いて「わが子を喰らうサトゥルヌス」。こちらは絵の状態があまりよくないため海外への輸送には適さない。借用はほぼ絶望的との関係者の情報を得た。最後に「メデューズ号の筏」。この作品はとにかくサイズが大きすぎる(縦5メートル、横7メートル)ため、日本に輸送して展示するのは現実的には不可能ということがわかった。唯一、「レディ・ジェーン・グレイの処刑」には一縷の望みがあるのではないか、そう思い込むことにして我々はこの作品をターゲットに決めた。

 今や中野京子ファン、『怖い絵』ファンの読者の方にはよく知られた作品だが、改めてこの作品について触れておく。

 弱冠16歳でイギリス女王に戴冠したジェーン・グレイが自身は何も知らないうちに謀略の渦中に巻き込まれ、幽閉の後に斬首された悲劇的な史実を19世紀ロマン主義の画家ポール・ドラローシュが劇的に描いた名作である。中野さんは著作の中で、ジェーン・グレイが幽閉されるまでの歴史背景から、画面上の処刑人や司祭の心情、ジェーン自身の心の内までを細やかに語り、読者をまるで舞台のクライマックスを見ているかのような不思議な感情に誘う。それだけでなく我々は、絵に描かれていない彼女のその後の結末(死後の姿)までも思わず想像し、彼女の悲惨な最期に涙する。

 この3点以外にも、展示候補として、あまたの作品がリストアップされた。選定の手順だが、まずは中野さんの著書に登場する絵画のうち、借用交渉に応じてくれそうな美術館所蔵の作品をリスト化し、展覧会のコンセプトに応じて◎〇△×を付けていく。本書でも紹介されているブリューゲル、クリムト、ルーベンスなどは必ず展覧会に入れたい作家としてリストアップされていたが、残念ながらいずれも出品は叶わなかった。中でもルーベンスの「メドゥーサの首」は◎作品として、優先的に交渉を続けたのだが残念ながら借用には至らなかった。名画はどの美術館にとっても、まさに宝。その貸出交渉は成就しないことのほうが多いのが現実だ。

 メインターゲットのロンドン・ナショナル・ギャラリーとの交渉は、はるか上方に垂れている微かな細い糸を渾身のジャンプで手繰り寄せるかのような限りなくゼロに近い可能性にのぞみを託してのスタートだった。まったく当てのないところから少しずつ美術館との接点を探り、出品交渉のステップについて情報収集し、作品借用の可能性を探り、英国からの質問に答え(そもそも『怖い絵』展という斬新なコンセプトの説明が必要で、これが難題のひとつだった)、ロンドンに足を運び、関係者と何度も策を練り直し、ようやく借用できる可能性が僅かながら見えてきたのは展覧会の開催まで2年あまりに迫った頃だった。そんな交渉が佳境を迎え、我々のテンションも少しずつ上がりつつあったある日、打ち合わせ中に中野さんから突如、「ジェーンが来ないなら『怖い絵』展はやりたくない」と非情な宣告を受けた。心の内を隠す様な、軽い感じの口調ではあったが目は笑っていなかった。私は中野さんの本心だと悟った。日本の美術展のトレンドを変えるほどのインパクトをもつ展覧会の運命がすべてこの交渉の成否にかかっている事を改めて認識させられた。もし空振りに終わったら……考えるだけで恐ろしかった。もしそうなったときは霧のロンドンに失踪してしまうしかないとまで私は追い詰められた。

 最終的にレディ・ジェーン・グレイの交渉は無事に成就し、私の失踪話は後々の笑い話で済んだのだが、これで逆に逃れられなくなったのは中野さんだった。実は彼女もこの長期間に渡る出品交渉の過程で私とは違う意味で大いに心を揺さぶられていた。

「レディ・ジェーン・グレイの処刑」の出品が叶うこと、それは大展覧会の開催がまさに近づいてくることを意味する。展覧会に関わる人間は、主催する新聞社、会場となる美術館にはじまり、美術品輸送会社やグッズ会社など、その数は膨大で、出版の比ではない。中野さんが後に明かしてくれた話では、特別監修者として展覧会の看板を背負うプレッシャーを人生で初めて経験し、その中心から何とかして逃げ出したい思いに駆られたそうだ。それが、「来ないなら……」の発言につながったのだが、とにかく、この絵は二人にとって忘れられない、そして運命を決する絵となった。

 2017年7月兵庫県立美術館で『怖い絵』展が開幕し、我々の“運命の絵”は大きな話題をさらった。実物を前に涙ぐむお客さんがいるほど、この絵の力、中野京子’s eye(解説文)の力は圧倒的で、展覧会に衝撃を受けた方々の口コミは全国を駆け巡った。

 兵庫会場に続いて開催した東京・上野の森美術館では入場待ちが最長3時間半を記録し、最終的に合わせて約68万人が会場に足を運んでくれた。これまでにない新しい切り口が斬新という高い評価や、初めて美術館に足を運んだが、展覧会がこんなに面白いものだったとは……という嬉しい言葉もたくさん聞くことができた。とにかく、展覧会は大大大成功で幕を閉じた。

 さて、長い昔話になってしまったが、改めて当時の喧騒の日々に思いを馳せながら、『運命の絵 もう逃れられない』を読み返した。

 読者をぐいぐいと絵画の世界に引き込む中野ワールドは健在だ。『怖い絵』展以後とまで言うのはおこがましいかもしれないが、昨今、芸術鑑賞には助け舟があった方が良いと言うのが定説になりつつある。 実際、私たちは自身の観察力や歴史的な知識、直観で絵を見るが、絵の裏には私たちが知らないことや推測しなければならないことがそれ以上にあることが多い。中野さんの豊富な知識と絵を読み解く力を借りると、忘れ去られていた歴史的な出来事のベールがはがされ、画家がその時に伝えたかったことが明らかになり、世界中の魅力的な絵画をより深く楽しめるようになる。そんな体験が本書の魅力だ。

 さらに、『怖い絵』展の企画サイドの視点で読むと、いまでも新たな出品候補作の発見に、わくわく感が止まらなくなる。バーン=ジョーンズの「運命の車輪」、ヴェルネの「レノーレのバラード」、ムンカーチの「死刑囚の監房」はぜひとも、次の展覧会に欲しい作品だ。近い将来中野京子さんの著書を元にした第2弾展が開催されるなら、それは『怖い絵』展IIが大本命だろう。しかし、もしかしたら『運命の絵』展かもしれない。はたまた『名画の謎』展もあるかもしれない。そんな日が来るとしたら、中野さんと私は新たな運命の絵から逃れられない日々をふたたび過ごすことになるだろう。夢はどんどんと広がっていく。

 自分が美術展に携わる仕事をする中で、中野さんの本に出会い、ともに展覧会を開催できたことに何よりの感謝をささげつつ、つたない「解説」とさせていただく。

文春文庫
運命の絵
もう逃れられない
中野京子

定価:891円(税込)発売日:2022年02月08日

電子書籍
運命の絵
もう逃れられない
中野京子

発売日:2022年02月08日

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