本書のテーマも正しく“日本医療史の光と影”であり、後者の幾つかはそのおぞましい顛末(てんまつ)によって汚点を残した。
著者は本書を書く契機となったアッペから書き出している。小著をしばしば引用して下さっていることは望外の光栄であり、私が繰り返し訴えて来たことを改めて代弁して下さっているようで欣快(きんかい)の至りである。
アッペを在りもしない“盲腸炎”と誤認した先人の迷妄は根深い禍根を残し、今だに“モーチョー”の誤称は巷間のみならず時代の先端を走るべきマスコミ関係者の間でもまかり通っている。呆れたことに、医師でもあった有名作家が全国紙の連載小説で“盲腸炎”と書いていた。それをチェックし得なかった編集者の不明を私はすぐさま咎めた。
アッペの話から遡って、有吉佐和子の小説で一躍クローズアップされるに至った紀州の外科医華岡青洲の数々のエピソードが紹介されている(第一章「黎明期の外科手術」)。
欧米に先立つこと半世紀、中国の文献にヒントを得て独自に開発した麻酔薬を用いて青洲が手がけた乳癌摘出術の詳細を、私は本書で初めて知った。患者の姓名から容姿、年齢、乳房の状況に至るまで。
放置されていた左の乳癌は乳房を占拠してそれこそ癌の語源である“岩”のように盛り上がり、皮膚は血行障害に陥って青黒くなっている。
青洲は果敢にもこの腫瘤塊にメスを入れ、飛び出した腫瘤をできる限り手でかき出した、とある。出血部位には布か綿を詰め込むかして止血を図ったのだろう。
今にも破裂せんばかりに膨れ上がっていた乳房が萎んで小さくなったことで、患者は喜び、手術のお陰と口こみで人々に伝わったに相違ない。
だが、青洲自身はこの手術を成功例とは思わなかった。患者が僅か四カ月後に亡くなったと知らされたからである。何もしなくてもそれくらい、いや、もっと生きられたかも知れない、と考え、忸怩(じくじ)たる思いに駆られたようだ。
実際、癌を断ち割ってかき出すなど、現代医学の観点からすれば無謀極まりない。癌の手術は、それを含む健常組織にメスを入れ、癌には一切触れず、遠巻きにアプローチして取り去るのが基本だからである。
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