登録終了後、彼は事務的な笑みを浮かべて「明日からお願いします」と言ったが、十二年の歳月を経て初めて、それが「おい、地獄さ行ぐんだで」という漁師のおっさんの濁声だったことに気付いた。そしてこれも十二年の歳月を経て初めて、あの社員=チープな骸骨野郎=ガリガリ君ネズミ味にまんまと騙されたことに気付いた。
時すでに遅しではあったが、それでも死ぬほど腹立たしいことに変わりはなく、遅まきながら恩讐の炎がメラメラと燃え上がり、冷凍カツオ的なもので思い切り撲殺してやりたい衝動に駆られた。しかし悲しいかな、念願の作家デビューを果たして心に余裕ができたため、僅か十秒ほどで全ての炎は完全鎮火して二度と着火することはなかった。
しがらみが消えて“純粋な思い出”となったことで、派遣工時代の話はある種テッパンとなった。会う人ごとにさりげなく話してみるとみな思った以上に喜んでくれるため、こちらも嬉しくなって次から次へとエピソードを紡いでいった。
月日は流れ、色々な事があっての二〇一三年・秋。
ちょうど文藝春秋の担当編集者が引き継ぎとなり、挨拶がてら食事でもしましょうと神楽坂のお店に一席設けていただいた。Cさん、Dさんと三人で食事をした後、グラスを傾けながら例の派遣工時代の話をするとなぜか異様に盛り上がった。調子に乗った僕は何かに取り憑かれたように二時間近く話し続けたのだが、その結果、お開きの際「常軌を逸脱し過ぎている」という理由で急遽「別册文藝春秋」での隔月連載が決定した。
まさに『瓢箪から駒が出』た珍しい夜だった。
これが世に言う『K坂の即決事件(二〇一三年)』である。
※本書は基本的に僕の体験記であるが、実在の人物がモデルになっているため、個人が特定されると思しき情報には全て『修正』が加えてある事をご了承いただきたい。
(「あとがき」より)
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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