書評

【映画原作】『こんな夜更けにバナナかよ』山田太一さんによる文庫解説

文: 山田 太一 (脚本家)

『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』 (渡辺一史 著)

『こんな夜更けにバナナかよ 』(渡辺一史 著)

 はじめて渡辺さんは、鹿野さんの福祉住宅の一室を訪ねる。予感通り鹿野さんは普通の人ではなかった。人工呼吸器をつけている。これは普通「死に瀕(ひん)した患者に施す」最後の延命措置で、そうなったら会話などできるものではない。しかし鹿野さんはその発声法を半年でマスターして、しゃべれないという定説をくつがえした。不可欠な「痰の吸引」も医療行為とされて医師や看護師以外には禁じられている。しかし一日数十回にも及ぶそれを入院せずに在宅で有資格者だけに頼ることは事実上不可能である。といって、ある日来たはじめてのボランティアに出来ることではない。教育しなければならない。「痰の吸引」だけではない。わずかに指を動かせるだけの鹿野さんの介助は、なにからなにまでどうすべきかを学んで貰うしかない。その指示が出来るのは、結局のところ鹿野さんしかいない。頼んだことをボランティアがやってくれなければ、すぐ死につながることもいくらでもある。だったら「悪いけど」とか「すみませんが」といちいち遠慮をしてはいられない。叱りつけてもやって貰うしかない。その代り、ボランティアも「やさしさ」や「思いやり」を演じないでいい。困っている人を助けることは、その人の日々も豊かにするはずだ。「人に迷惑をかけない。かけられたくもない」という生き方はそれぞれの孤独を深めるだけだ。みんなもオレの介助をすることで世界を広げているはずだ。対等だ。

 真夜中にボランティアを起こす。バナナを食べたい、という。ボランティアは半分眠りながら皮をむいてバナナを口へ運んでくる。ひと口ひと口ゆっくり食べる。食べ終る。呼び止める。「もう一本」という。

 この独特の「あつかましさ」が、介助する人たちの偽善をはぎとってしまう。鹿野さんの「どんなことをしてでも生きたい」という欲求には、なまじっかの善意では向き合えない凄みがある。

 それで人々は離れて行くかというと、反対なのだ。ひきつけられて行く。

 若い人たちだってお互い本音では生きていないから、鹿野さんのむき出しの、いつわりのない生に触れて、ここに来たい、背を向けたくないという思いが湧く。ここでは、嘘のない自分でいられる。

 渡辺さんは、自分もボランティアの一人となって鹿野さんを介助するようになる。めったにない鹿野さんの魅力にも、ひとりひとりのボランティアのそれぞれの心の事情にも触れるようになる。ボランティアに関わって来る人には、人と関わることで埋めたい飢えがあるらしいのだ。それを鹿野さんが受け止める。次第にどっちが「障害者」でどっちが「健常者」か分らなくなって来る。そのようにしてボランティアの人数を減らさない鹿野さんのいわば必死の人間通にも胸を打たれるし、その強さが個の欲求だけではなく、いかに世の中が障害者の現実に鈍感かということへの怒りにも支えられていることを知って行く。


こんな夜更けにバナナかよ渡辺一史

定価:本体880円+税発売日:2013年07月10日