2008.01.20 書評

棒をくわえた犬と精神の強度

文: 春日 武彦 (精神科医)

『ひとりでは生きられないのも芸のうち』 (内田樹 著)

 高校の頃に、おそろしく退屈なのを我慢しながらムジールの大長篇小説『特性のない男』を読んだことがある。つまらなかったという身も蓋もない感想しかなかったのだけれど、唯一、記憶に残ったエピソードがある。それは一匹の犬が、一本の棒をくわえたまま穴をくぐり抜ける話である。

 ぎりぎりの大きさの穴なので、棒を横にくわえたままでは、犬はすんなりと通り抜けられない。といって、棒を縦にくわえ直すような方法論を犬は持ち合わせていない。そこで犬は頭を振り身体をよじらせながら試行錯誤を試みるだろう。そして悪戦苦闘の挙句、ある瞬間に、すっと穴をくぐり抜けられるだろう。そのとき、犬はおそらく超自然的な、神秘的な体験に近いものをありありと実感しているのではないか。そんな内容なのであった。

 当時のわたしには、その話がいやに生々しく迫ってきて、しばらく茫然としていた憶えがある。

 ところで今回の内田先生の本を読み、なかでも「メディア・リテラシーとトリックスター」と題された文章が、ひどく印象的だったのである。

 トリックスターとは何かというのは難しい問題であるが、ここでは、渾沌としてマニュアル的知識だとか前例といったものが全く通用しない状況を(一見、呆れるばかりに易々と)突き抜ける能力の持ち主としておこう。ホリエモンと山岡鐵舟が登場するのだけれど、そして山岡が近代日本におけるトリックスターのロールモデルではないかといった興味深い一節もあるのだけれど、まあそれはともかくとして、こんな記述がある。

〈非合理な言い方だが、「どうふるまっていいか正否の基準がないときの、正しいふるまい方」というものが存在するのである〉

〈……矛盾を矛盾のまま引き受けることができるという点がトリックスターの知のありようなのである。
 私たちの時代の不幸は、このような「無規範状態を生き延びる規範」の探求を人間的成熟の目標に掲げる習慣を失ったことにある〉

 ああそうだよなあ、と深く頷きたくなる。

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ひとりでは生きられないのも芸のうち
内田樹・著

定価:本体600円+税 発売日:2011年01月07日

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