みなさん、こんにちは。内田樹です。
『もういちど村上春樹にご用心』が文春文庫化されることになりました。よりリーズナブルな価格で手に入れやすいかたちで頒布されるようになったことをうれしく思います。「新版の読者のみなさんへ」に書いてありますように、この本は最初『村上春樹にご用心』というタイトルでアルテスパブリッシングから二〇〇七年に刊行されました。それを改稿して同じ出版社から三年後に出たのが『もういちど村上春樹にご用心』です。本書はその文庫化です。でも、文庫化に際して何か「おまけ」を付けましょうということで、二〇一三年に『文學界』に寄稿した『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』論と、書き下ろしの『女のいない男たち』論を文庫には追加しました。作家が新作を出すたびにヴァージョンアップする評論集というのは、あまり例がありませんが、まあ、そういうものも一つくらいあってもよろしいんじゃないかということでご海容下さい。
僕はご存じのとおり「評論家」ではなく「ファン」「崇拝者」というポジションから村上春樹を論じています。そういうスタンスから作家論を書く人はあまりいません(卒論でも、そんな書き方をしたら、ふつうゼミの先生から「そんなのは論文とは言わんぞ」と叱られます)。でも、僕はこういう書き方も世の中には必要なんじゃないかと思っています。「世の中には」というような漠然とした言い方ではなくて、はっきり「学術研究にも」と言ってもいいです。「ファンが書いた作家論」が学術的に生産的であるということは十分にありうると信じているからです。そう信じていなければ、こんなにたくさん一人の作家について書いたりしません。
「偏愛的作家論」でも十分な批評性を持ちうる。僕はそのことを証明してみせたい。そう思っています。
僕はかつてエマニュエル・レヴィナスという哲学者に「弟子」という立場から接近して研究論文を書いたことがあります。あまりに偉大な哲学者だったので、その著作に対しては、頭を下げて「教えを請う」という以外の姿勢をとることができなかったのです。でも、それでよかったと思っています。僕のような浅学非才の若造としては、レヴィナスを読む仕方をレヴィナスから教わるしかなかった。レヴィナス研究者から教わるより、レヴィナス本人から読み方を教わる方が「話が早い」と思ったからです。
そして、僕はレヴィナスから直接に「解釈とはどういうことか」、「叡智の書物はどういう作法で読めばいいのか」を学びました。そして、そうやって学んだ方法に従って師の書いたものを解釈しようとしました。「そんなのただの循環参照じゃないか。学術的には何の意味もない」と言う人もいるかも知れません。でも、僕は違うと思う。哲学研究というのは、ある「定点」からクールに対象を観照するというものには限られない。研究しているうちに、研究者自身がその「定点」から引き剥がされて、浮遊し始めるということがあってもいいと僕は思います。哲学研究をしているうちに、当の哲学者自身に「感化」されて、研究を始めたときとは別人になってしまっていた、ということでいいと思う。本を読む、他者の思考や感情に触れるというのはそういう力動的な経験だと思う。むしろその方が自然だと思う。