そもそも「どうふるまっていいか正否の基準がないときの、正しいふるまい方」なんてものは、理屈からすればあり得ない筈なのである。だから本来そんなことは文章のテーマにはならない。だが、人生経験から遡ると、確かにそのような「ふるまい方」はある。まぎれもなく、そのような存在の手応えを感じた場面にわたしは遭遇している。そんなものはないと言い張ることは簡単だけれど、何だか寂しいというか貧しい態度である。気力が充実していると、カオスや危機を掻(か)いくぐっていけるある種の「ノリ」に近いものが見えてくる。
もしかするとそれは良い意味での「ふてぶてしさ」に近いものかもしれない。「のらりくらり」と「確信犯的な気合」を無意識のうちに使い分ける営みに近いのかもしれない。
それは棒をくわえた犬にとっての神秘的体験とは大きく異なる。犬は闇雲な試行錯誤しか出来ないのであり、おろおろする犬はトリックスターと無縁である。
わたしは職業上、精神を病んだ人たちと接し、ときには修羅場に近いものに直面する。説得も論議も成り立たず、といってフレンドリーな笑顔でどうにかなるものでもない。どう対応したら良いのか。逃げだすわけにもいかない。パズルを解くようにして解決法が導き出せるような状況ではない。しかし、たまに(残念なことに、ときたまでしかない)上手く場を収めてしまえることがある。振り返ってみると、そんなときにはなぜか「ま、なんとかなるさ」といった確信に近いものがあり、「のらりくらり」と「気合」とをぬけぬけと駆使している。そのときのわたしは、棒をくわえた犬のように困惑してはいない。ちまちました論理性や現状が孕んだ渾沌など意に介さず、「いいから俺の言うことを聞きなよ」と患者さんに囁くことが出来る。時間の経過が状況に立体感を与え、やがて意外性に満ちた結末を導き出せそうな予感を覚える。
だが、残念なことにそのようなケースは僥倖で(ぎょうこう)しかない。こちらの体調とか天候の加減、前夜の食べ物すらが関与するであろう実に不確定な事態としか言いようがない。情けなくなってしまう。
けれどもだからこそ、矛盾を矛盾のまま引き受けることは不可能ではなく、「どうふるまっていいか正否の基準がないときの、正しいふるまい方」は実際にある――そう指摘してくれる文章と出会うことに、大きな意味が生じるのである。そのことによって精神の強度は確実に高まることだろう。成長のためには成功体験が糧となるように、頼もしく生きていくにはこのようなどこか突き抜けたイメージを持つことが必要に違いない。
と、そんな発見に満ちた文章がひしめき、ぎりぎりサイズの穴を駆け抜ける快感に満ちた一冊こそが本書なのである。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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