この幸福の問題は、宮本輝の小説の根本的なものであり、デビュー当時から考えぬかれている。芥川賞受賞後に外国の古典を読み返し、あるものは冒険を、あるものは虚無を、あるものは快楽や愛憎のエッセンスをにじませて生き長らえてきたが、それらは“ことごとく部分であり瞬間であり閃光”であった。“部分や瞬間をえぐっていくことで、全体を、永遠をあぶり出していくのが芸術の仕事”であり、“無尽蔵な部分の羅列と混成”が何を志向すべきかと問われれば“私はやはり「人間にとって、真のしあわせとは何か」という一点にたどり着いてしまう”と述べている(引用は『二十歳の火影』所収「文学のテーマとは、と問われて」より)。
そして真の幸福を考えたとき、どうしても無視できないのは、生まれながらついてくる身分、貧富、容貌、頭脳、体力、時代などの差で、それは宿命と呼ぶしかない。“ひとりの人間の宿命を虚構に託して追跡し、そこに人生の意味や味わいをあぶり出すことは、すでに古今東西にわたるあらゆる名作が成しとげた”。新しいものなど何もないが、もしあるとすれば、“それは人間のかかえ持っているどうしようもない根底的な「差」によって生じる悲しみや苦しみや障害を、どのように打ち破り、いかにして自分らしい勝利の物語に転換せしめるかの方途と証しを示す場合にだけ見いだすことができる”(『二十歳の火影』所収「宿命という名の物語」)。同じことが、本書の茂樹と美花の宿命の物語にもいえるだろう。いや、茂樹の会社の元同僚の西口など脇役たちの人生にもいえる。悲しみや苦しみや障害をひとつひとつ明らかにして、打ち破る方法を示していくのである。精神的かつ経済的な勝利も視野にいれ、後半は旅館業を営むための実際的知識も増えて、商売小説としての興趣も起こりわくわくする。
とはいえ、やはり印象的なのは、セックスを含めた命の力だろうか。罪の意識がもたらす異常な愉悦とか、気持ちのいい沼みたいな快楽とか、ふくよかな支配とか、おごそかな何物かに包まれつづけている交合とか、さまざまな性愛が言葉豊かに語られるけれど、性愛以外の生の営みもたっぷりと書きこまれている。つまり、食べて、飲んで、笑って、泣いて、怒ってといった人間たちの姿を生き生きと捉えているのである。しかも、ユーモアを忘れずに。宮本輝の小説がいいのは、至る所にユーモアがあり、和ませてくれることだ。真摯で、切実で、悲しいけれど、でもいつも温かな微笑がそばにある。人物に愛嬌があるからだろう。“愛嬌がないところに福来たらず”という表現が出てくるけれど、愛嬌なきところに物語の愉楽なしといってもいいのではないか。さきほど僕は、宮本輝は、語りの名手のベスト5に入るといったけれど、それはストーリーテリングが卓越しているだけでなく、ユーモアにみちた語り口も加味してのことである。
ごらんのように、本書『焚火の終わり』には宮本輝のエッセンスがあるといっていいだろう。素晴らしい話術にのせられ、僕らは男と女の宿命の物語に深く魅せられ、心のなかの何物かをくつがえされる。作者は世間の善悪にふれつつも、それを仮初め事としてとらえ、もっと深く潜むものを見ようとする。倫理の綱渡りのような、ひじょうに危険で背徳的な部分もあるけれど、命がもつ深い歓びをつかまえて、真の幸福とは何かを力強く問いかけている。開かれた結末も効果的で、何とも忘れがたい小説だ。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。