本書は二つの部分からなる。後半の本体部分について先に述べておけば、こちらは、いまも「週刊文春」で連載がつづいている「私の読書日記」の二〇〇六年十二月七日号から二〇一三年三月十四日号にいたる約六年分をおさめたものである。一九九二年からはじまった「私の読書日記」から生まれた本は、『ぼくはこんな本を読んできた 立花式読書論、読書術、書斎論』『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』(ともに文春文庫)『ぼくの血となり肉となった五〇〇冊 そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊』(文藝春秋刊)に次いで、これで四冊目になる。
本書におさめるにあたって、若干の加筆訂正を行った部分もあるが、基本的には初出のままである。「週刊文春」の「読書日記」には、複数の書き手がいて、それぞれに独自のスタンダードで掲載書を決めて、勝手なことを書いている。編集部からの掲載書の選択、記事内容についての押し付けはいっさいない。各人が好き勝手にやっている。
ここで、私がどのように本を選んでいるか、どういうつもりでこのページを書いているかについて、ここにメモ風のことを述べておく。私はこのページを書評のページとは思っていない。また純粋に私的な読書ノートとも思っていない。むしろ、そのときどきで書店の店頭にならぶ本の中で、読む価値がある本の紹介のページと思っている。従って、〆切が近づいた時点で、具体的な書店(近所の書店二軒と神保町の東京堂書店、三省堂書店、新宿の紀伊國屋書店、東大生協など)の店頭にならぶ本をサーッと見て歩き、次々に心ひかれる本をカゴに入れ、あとは読みながら本を選んでいく。選ぶいちばんの基準は広義の「面白い」ということに置いている。といっても、単なる娯楽本読み物本のたぐいは、いっさい排除している。フィクションは基本的に選ばない。二十代の頃はけっこうフィクションも読んだが、三十代前半以後、フィクションは総じてつまらんと思うようになり、現実生活でもほとんど読んでいない。人が頭の中でこしらえあげたお話を読むのに自分の残り少い時間を使うのは、もったいないと思うようになったからである。選択で気を使うのは、取り合わせである。私の場合、関心領域が広いから、領域の取り合わせ、本の内容のむずかしさ、肩のこらなさなどの取り合わせにも気を使いながら、次に取りあげる本を選んでいる。
もう一つ気を使っているのは、あまり知られていない本だが、「こんな本が出ているということそれ自体にニュース価値がある(人に知らせる価値がある)」と思うような本に出会ったときは、それを積極的に取りあげるということである。その反対に世評が大きすぎる本の場合は、ワンランク下の力の入れ方にして、取りあげないか、取りあげても軽い言及にとどめるということである。
ここで、前半の石田英敬・東京大学附属図書館副館長(当時。二〇一六年現在、東京大学大学院総合文化研究科教授)との対談「読書の未来」について、一言しておく。
これまで、「週刊文春」の「読書日記」をまとめた本としては、前述の三冊がある。いずれも、連載をまとめた本体部分と、それにプラスアルファした部分の二部構成になっている。そこで今回も発刊準備にかかった頃から、そのプラスアルファ部分をどう構成するかという話を一年以上前から担当者としていた。その過程で、かなり前から石田副館長との対談という話が決まっていた。石田副館長は、その前職は東大大学院情報学環の学環長をしており、その時代に、私も情報学環の特任教授をしていた関係で、幾つかのプロジェクトでご一緒していた。たとえば、二〇一〇年七月二十四日には、角川グループホールディングス取締役会長の角川歴彦氏をお呼びして、『電子書籍の“衝撃”「コレがアレを殺す?」』を行うなどをしたこともある。
「コレがアレを殺す?」とは、ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に出てくる登場人物、司教補佐クロード・フロロのセリフである。フロロはニュールンベルクで印刷された書物「聖パウロ書簡集注釈」をコレと指さし、窓の外に見える石造のノートルダム大聖堂を指さして「アレ」といい、いずれ印刷された書物が石造の大聖堂を滅ぼすことになると言って、グーテンベルク革命がもたらす未来社会の大変革を示唆したということになっている。実際、それから間もなくはじまったグーテンベルク革命によるルターの書物の爆発的な広がり(ほんの数年で三十万部。ドイツの出版物の半分以上がルターの書物となった)が、宗教改革をもたらし、カトリック教会のヨーロッパ精神世界支配を危(あやう)いものにしたのである。
このシンポジウムの「コレがアレを殺す?」は、当時はじまったばかりの電子書籍の時代が、グーテンベルク革命と同様の一大社会変革をもたらすであろうか? という疑問を意味している。
まず、幾つかの事実から述べておくと、このシンポジウムからすでに三年余を経過するにもかかわらず、電子書籍が紙の本を圧倒するような勢いで、伸びたかといえば、必ずしも伸びていない。
電子書籍そのものが、まだ必ずしも普及したといえない状況にある日本はともかく、かなり電子書籍が普及したはずのアメリカにおいてすら、必ずしも伸びていないばかりか、数量的にはむしろ伸びが鈍化する動きが出てきており、このままいくと電子書籍の端末は二〇一一年をピークとして、あとは減少の一途をたどるのではないかという予測を発表している調査会社もある。大きな理由の一つは、スマートフォンの驚くべき進化の速さと普及の早さによって、電子メディア全体の今後の趨勢が読みづらくなっているということがある。
少くとも目先数年は、書物の世界(雑誌も含め)はそう簡単には電子書籍に移行しないで、紙の本と電子書籍がそれぞれの特長を生かしつつ共存する時代がつづきそうな気がする。
その一方で、書物のデジタル化も一層進むだろうという気がする。保管の容易さと検索の容易さの点において、デジタル書物の便利さはアナログ書物(紙の本)より圧倒的に有利だから、権利問題がクリアされた古い書物はこれからデジタル・アーカイブにどんどんおさめられていく方向にある。国会図書館などの公共図書館を中心に、過去の書物はどんどんデジタル化されつつある。紙の本の流通と利用が残るのは、ナマもの的に新しいものだけという方向にいずれ行くのではないか。
そういう流れの中で、読書という行為が持つ意味もどんどん変り、人間の情報生活のあり方、学習の態様などもどんどん変っていくのではないか。
そういう状況変化の中で、人々が人生でいちばん本を読む時期であり、学習をする時期である学生生活のあり方が大きく変りつつある。その中にあって、学生の学習生活の中核にあるインフラたる図書館のあり方も変らざるを得ないということで、世界中の大学の図書館のあり方、利用のされ方がどんどん変りつつある。日本における大学図書館の大変貌の先端を知りたいと思って、巻頭対談のお相手を石田先生にお願いした。大学図書館のみならず、人間の知の世界全体がいまほど劇的に変りつつある時代はないということがよくわかった。
(「まえがき」より)
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