書評

歴史としての中東欧州複合危機

文: 山内 昌之

『歴史という武器』 (山内昌之 著)

 それでは一体どうすれば、無差別テロを防ぎ根絶することができるのだろうか。ヨーロッパにおける中東出身者やイスラーム教徒の相対的貧困や社会的差別に原因を求める意見がある。とはいえ、すべての若者がみなテロに走るわけでは絶対ない。「貧困や差別を解決すればテロは消える」「関係者の対話で紛争を解決できる」という言葉は美しいが、具体的な説得力に乏しい。普通の市民階級に属する人がなぜ、現場に女性や子供がいてもテロ実行を躊躇しないテロリストに変容していったのか。そうした若者たちの心性を一般的に「ニヒリズム」(虚無主義)という観点から説明することはできる。それでも、「怒り」の生まれる社会的背景と個人の内的心理について、いま確定的な答えを持つことは難しいのだ。いかなる職業でも勤労によって糧を得る意欲を欠くか、成功者や有産者との比較劣位に由来するコンプレックスか、豊かな社会で永久に充たされることのない青少年の歪んだ欲望か、あるいはそれらがないまぜになった情緒や衝動がニヒリズムと結びついたことも考えられよう。

 一般に法を犯す行為とテロリズムは別種のものである。パリの大テロやブリュッセルの同時テロの実行犯はイスラーム信仰に格別熱心だった者とはいえず、むしろ、飲酒癖や遊興癖さえ持つ反イスラーム道徳の徒さえ含まれていた。通常の法規範において反社会的な行為を繰り返す者たちが、ともかくイスラームを銘打ったテロリストに変容する回路はまだ解明されていないのである。この点にヨーロッパにおけるテロ問題の深刻さがあると言うべきだろう。

 ヨーロッパのテロの本質をとらえる際に重要なのは、前にも少し触れたように、中東複合危機の波及拡大とヨーロッパで頻発するテロとつながる形で中東欧州複合危機が深刻化することだ。とくにシリア戦争の平和的解決の失敗と、戦争の長期化が危機を深刻化させる懸念材料である。なかでも、トルコ軍機によるロシア軍機の撃墜を端緒とするロシアとトルコとの歴史的確執の再燃、サウジアラビアとイランとのイスラーム内部の宗派や湾岸安全保障をめぐる競合という「二つの対立軸」が、紛争長期化の背景にあるともいえる。

 とくに厄介なのは、域外大国ロシアの干渉と思惑である。中東におけるロシアの主要な武器輸出国だったイラクとリビアで独裁政権が崩壊し、シリアだけが残ったのである。また、シリアはロシアにとり重要な戦略拠点でもある。ロシア黒海艦隊の地中海展開には、補給基地のあるシリアのタルトゥス港が不可欠なのだ。また、ロシアはソ連解体後に失われた中東の権益と威信を回復しようとしている。

 さらにロシアには、トルコがオスマン帝国以来、シリアで維持してきた影響力を排除する思惑がある。トルコ軍を挑発してその陸上兵力をシリア領に誘いこみ、シリア政府軍や少数民族クルド人と衝突した局面で、「トルコはシリア内戦に参入した」と主張し、ロシアが陸海空でたたく狙いを持っていた。ロシアはシリアのトルコ国境沿いに、クルド人自治領を設定する構想を実現することで、トルコとアラブ世界との接触を遮断し、すでに名ばかりになった「新オスマン外交」なる積極的中東外交を最終的に破綻に追い込もうとしているのだ。そのうえロシアは、主力部隊の撤退を装いながらも、シリアにおける軍事的駐屯を永続化する狙いを放棄していない。

 他方、シリアはじめ中東情勢がかくも複合的な危機の様相を呈するようになったのは、アメリカの不作為や無為によって、シリア問題でロシアに押されてきた点と無縁でない。アメリカは、ISとアサド政権の同時封じ込めを目指してきたが、複雑でうまく行かないことをようやく悟ったようである。それでもアメリカには、危機を喰い止めるために、ロシアと合意を模索しながら、軍事干渉によらずに発言権を回復する思惑もある。

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歴史という武器
山内昌之・著

定価:本体720円+税 発売日:2016年06月10日

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