書評

歴史としての中東欧州複合危機

文: 山内 昌之

『歴史という武器』 (山内昌之 著)

 オバマ大統領は二〇一六年三月末に何よりもIS打倒を最優先とすると宣言するに至った。他方、アメリカの同盟国サウジアラビアは、ロシアとシーア派国家イランがシリア情勢で優位に立てば、地域の勢力均衡が乱され、スンナ派盟主サウジアラビアの地位が脅かされると警戒している。

 サウジアラビアはアメリカを中東複合危機の当事者としてイランやロシアと対抗させるために、瀬戸際外交に出ている。二〇一六年二月、サウジアラビアが状況によってはシリアに「地上軍を派遣する用意がある」と表明したのは、ロシアとイランを牽制し、アメリカをシリア戦争に引っ張り込む狙いだったが、アメリカはジュネーヴでのシリア和平協議招集によってこの罠にはまらなかった。しかし、各国の利害が絡み合う中東複合危機は更に悪化しかねず、この文庫本の出版時には「中東欧州複合危機」が本格化しているかもしれない。まさに、情勢は予断を許さないという表現こそ、現在のような複雑な歴史的局面に使われるのだろう。

 シリアの周辺国の変化も気になるところだ。イランでは二〇一六年二月末の国会選挙で、穏健派のロウハーニ大統領を支持する勢力が勝利した。私はその一カ月前に、テヘラン、エスファハーン、シーラーズなどを訪問し、核合意による制裁解除に対する市民の高い期待感に接していた。かといって、今のイスラーム政治体制が、ただちに改革穏健路線に転換するほどイランの国内事情は単純ではない。イラン保守強硬派の基盤である革命防衛隊が、イエメンやバハレーンのシーア派勢力を後援しながら、その地の体制転覆を画策しているからだ。イランは、革命防衛隊を通してシリア内戦にも直接介入している。こうした動きをサウジアラビアはじめアラブのスンナ派諸国は強く警戒している。イランの政治的力関係では穏健派と強硬派という異なる二つのベクトルがいつも働いており、内外に厄介な問題を生む事態は二十一世紀においても当面続くであろう。

 シリアの内戦終結に向けて二〇一六年一月末、米露両国の主導でアサド政権と反体制派の和平協議が開かれたが、早々と中断した。再開されるにしても、ISやそのライヴァルのヌスラ戦線は和平協議の枠から排除されることは間違いない。ベトナムやボスニア= ヘルツェゴヴィナの戦争や内戦と違って、紛争当事者の有力組織を(テロリストという性格規定に間違いがないにせよ)和平プロセスにまったく関与させず、そもそも米露はじめ米欧諸国が協議自体を否定することがシリア戦争の処理を難しくしているのだ。こうして、責任ある国家でもない政治主体が和平の行方をネガティヴに決定づけている点こそ、ポストモダン型戦争あるいはハイブリッド型戦争の大きな特徴なのである。

 こうした中東の政治事象を総合的に考えるときに、本書が示したように、「歴史という武器」は有用なのである。そして、『歴史という武器』が最初に出版されたとき、熱心に読んでいただいた読者が存在したことは、まことに光栄そのものであった。そうした方々は、歴史的に物を考えることを重視し、未来への中期展望を歴史学に虚心に期待する点で共通しているのかもしれない。文庫版のあとがきでも読者の方々に御礼を申し上げたい。

 

 平成二十八年三月二十八日

(「文庫版あとがきにかえて」より)

歴史という武器
山内昌之・著

定価:本体720円+税 発売日:2016年06月10日

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