「世に二つとない絵を描く」奇想の天才画人・伊藤若冲。2016年の生誕300年を前に、全国各地で展覧会が開かれ、雑誌でも特集が組まれるなど、その人気は高まるばかりだ。しかし、彼は何故あれほど鮮麗で、奇妙な構図の作品を次々と世に送り出したのか? 本書では同時代の画人たちの交流と18世紀末の京都の世相を交えながら、若冲の知られざる背景に迫っていく。
――作中には池大雅、円山応挙、与謝蕪村をはじめ、18世紀後半の京都で活躍した画人たちが続々と登場します。
澤田 若冲と池大雅が親しかったことは史料で明らかになっていますが、応挙の家も蕪村の家も半径500m圏内の非常に近い場所に住んでいました。おそらく面識はあったでしょうし、実際にこの頃の京都では尊王論者の公家たちが追放された「宝暦事件」や「天明の大火」など次々に事件が起きているんです。若冲ひとりを押さえることで、18世紀末の京都を俯瞰できたらとも考えました。
――池田屋事件や新撰組など、幕末の京都を舞台に書かれたものは多いですが、この時代を背景にした作品は少ないですね。
澤田 確かに幕末の京都は有名ですが、若冲が亡くなったのがちょうど1800年。彼の生きた時代の京都というのが、意外にも現在の京都を形作っているものが多いんです。画師たちの活躍はもちろんのこと、たとえば若冲も焼け出された天明の大火では、京都の中心部がほとんど燃えてしまいました。だから、いまの観光寺院として有名な金閣寺にしても、銀閣寺や竜安寺もすべて洛外にあって、街の真ん中には古いお寺が残っていないわけなんです。
天明の大火では円山応挙も焼け出されていて、この時に円山派の流れを組んだ四条派の始祖となる呉春(月渓)と出会ったとも言われています。色んな人生があそこで大きく変わったわけで、それを正面から書くことができた手応えを感じています。
その後行われた禁裏のご造営もテーマとして興味深くて、当時、財政難の幕府には江戸から画師を連れてくる費用がないため、京都の画師が雇われることになりました。史料をあたると応挙やその弟子たちが登用されているのですが、若冲の名前はそこにはありません。火事の後に大病をしていたという記録や年齢的な事情もありますが、人前に出るのを厭う人間だったということも理由ではないでしょうか。
――さて、この物語には最重要人物として、若冲の贋作を徹底して描き続けた画師が登場します。
澤田 若冲の贋作と言われる作品をいくつか見たのですが、それが非常によく描けているんですね。これだけ巧い絵を描けるのだったら、自分の名前を表に出した絵をいくらでも描けるだろうに、なんで贋作を描いていたのだろう? あの時代に贋作師は他にもいましたが、そもそも若冲の絵はそう簡単に真似できるものでもないし、あれだけの色彩の顔料代だって馬鹿になりません。あえて若冲の贋作を描いた画師の存在を考えているうちに、作品に出てくる市川君圭という人物が浮かび上がってきました。
設定として考えたのは、「いちばん身近にいて、なおかつ他人」ということ。若冲の血縁者は過去帳ですべて分かっていますし、一般的には生涯独身で40歳で隠居してからは、絵事三昧に暮らしたと伝えられていますが、大きな商家の旦那さんが40歳まで独身で暮らしていたというのには、少なからず疑問がありました。家督相続をする時にやはり結婚はしているはずで、では記録に残っていない奥さんとは何者だったのだろう、と……。
もう一人、作中には視点人物となる若冲の妹・志乃が出てきます。この女性も過去帳には記録されていませんが、老齢になった若冲が暮らしていた石峰寺を訪れた人の記録に、若冲が尼姿の妹と暮らしていて、そこには小さな男の子と暮らしていたと書いてあるんですね。そこからさらに設定を練っていきました。
そのほか、若冲の生家・枡源がある錦市場が存在の危機に陥った時、助けの手をのべてくれた幕府の勘定役の中井清太夫、若林市左衛門らも実在した役人です。彼らはこの時期に禁裏の財政を預かる口向役人の不正摘発に関わった人物ですが、錦市場の騒動を記した伊藤家の史料にも中井・若林の名が出ていることに気付いた時は、俄然、興奮しました。作中の「つくも神」の章では、中井が若冲に接近したことにある意図を持たせています。これは私の推論であって、研究者の論文としては成立しませんけれどね(笑)。
今回は小説の形を借りたことで、また新たな若冲の姿を描き出すことが出来たのではないかと思っています。
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