市之進はいまごろどうしているのだろう。市之進が傍にいれば、違った道が見えていたかもしれない。
だが、佐登が出会ったのは、旅興行の歌舞伎役者志のぶ。美しいが、子役から大人になる時に役者の命である声が嗄(か)れた。
役者としての将来が見えず、金を持つ女に身をまかせ、「女なんて、金のツルだ」とつぶやく男だ。
歌舞伎は、現実を忘れさせてくれる。佐登は役者の踊りに恋の物語を見た。
女が僧侶を追ってかきくどく。
「どうにもならぬと逢いに来た たしなんでみても情けなや いつまでかくて置き給う 急ぎ迎えと申しかば……」
蛇身となって僧侶を焼き尽くす女の恋だ。恐ろしくもあり、魅惑的でもある。
滅びたいという衝動に身を委ねるのに恋ほどふさわしいものはない。極楽と地獄を味わい尽くさせてくれる。
手練手管の恋を仕掛けたのは、志のぶだ。
「また逢ってくれますね。……無茶を言うなとお怒りなさいますか」
恋は役者にとって生きて行くための手段でもある。
志のぶに落ちる佐登。一方、善兵衛が亡くなり、世間の風が直に吹きつけてくるにつれ、善吉の足取りは重くなっていく。
居るべき場所でない遊郭に客として足を踏み入れもする。そんな善吉に心を動かす遊女もいた。
わかりあえぬ男と女の縁はもつれて解きほぐす術はない。
おのれの体の不自由をかこつ善吉は、佐登に言うべき言葉を持たなかった。それでも心はどこかで息づいている。善吉は闇の中にじっと佇む。
志のぶの仕掛ける恋は、火照(ほて)る身を冷ます氷でしかない。佐登の体の奥深くに燃える炎に飲み込まれ、やがて溶ける。
志のぶは逃げたいと思う。だが、逃げたくない自分もいる。しかし、佐登の目に惑う志のぶは見えていない。
――死んだ気で待とう、死んだ気で。
断ち切れないからこその未練だ。佐登は恋に溺れた。
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