ところで、この小説で重要なモチーフになっている雪彦遭難の「時代」について考えてみよう。
彼は1996年4月のゴールデンウィーク、北アルプスの不帰II峰南峰を登り切り、III峰へ向かう途中の狭い稜線で滑落したことになっている。一方、小説のモデルになった実在する柴田のそれは、1982年3月、同じ不帰III峰であった。遭難現場こそ類似しているが、この15年ほどの年月の差は、遭難の態様そのものを大きく変えてしまった感がある。
1982年ころといえば、一部の先鋭的登山家たちはヒマラヤの高峰、それも未踏の難ルートからの登頂に意欲を注いでいたころである。国内でも若い人たちが、積雪期のアルプスで岩壁登攀や雪稜の縦走などに意欲を燃やしていた。山に真摯であるがゆえに、思い詰めたような一途さすら感じられた。しかしこの十数年の時の経過は、山の情況や遭難の形態に大きな変容をもたらすことになる。いわゆる「中高年登山ブーム」の到来と定着だ。
中高年登山者、特に中高年になって登山を始めた初心者が増えれば、当然、山の事故も増えてくる。それまで山の遭難といえば、柴田のように岩登りや雪山での滑落や雪崩など、ごく一部の登山者に限られたものだった。しかし登山の大衆化は、遭難対策の関係者にも想定できなかった事態をもたらすことになる。遭難事故の大半が、中高年による「ふつう」の登山道での転・滑落や道迷い、病気など突然死によるものとなり、なお今日にいたるまでその傾向が続いているのである。
一方雪彦の「遭難」は、私たちにまた中高年とは異なった事象の変化を語りかけてくる。著者は、14年という時間をスライドさせて、20代の若い登山者たちをモデルにして、彼らの山行を再現してみせた。それはまだほんの萌芽のようなものであるかもしれないが、総じて若い人たちの山への復権の兆しを感じさせるころと符合する。彼らの登場は、最近の「山ブーム」到来をも予感させる、時代の屈託のなさの表われでもあるようだ。
最後に、冒頭の柴田の追悼集に、再度、ふれておきたい。解説の依頼を受けた私は、本書の参考文献一覧をみて、ひっかかるものを感じていた。もしや、と思って取り寄せた追悼集は、はたして私が信州大学に通っていたころ、ある山小屋でともに一時期アルバイトをしていた柴田のそれであった。思いがけぬ旧友との35年ぶりの邂逅(かいこう)となってしまった。まさにミステリアス、推理小説を地でいくような展開にとても不思議な感懐を抱いている。
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