〈特集〉司馬遼太郎 短篇小説の世界
・司馬遼太郎にとっての短篇の意味 関川夏央
・司馬遼太郎賞受賞者が選ぶ 私の好きな司馬さんの短篇
一九五五年、司馬遼太郎はまだ三十歳を少しすぎたばかり、本名福田定一の大阪の新聞記者だった。取材は性にあっていたが、いわゆる名文記者の資質はなく、記事を書くことは楽ではないと感じていた。それ以上にデスクワークが苦手だった。苦手というより苦痛だった。たとえ出世ではあっても、内勤にまわされたら会社を辞めようと思っていた。だが、辞めて何をするか。
「小説を書こうと思うんだが」
司馬遼太郎はある日、京都支局での宗教担当記者時代以来旧知の寺内大吉に、ふと打ち明けた。寺内大吉は浄土宗の僧侶であり、同時に作家志望者だった。文学青年のくさみのない寺内大吉だから、日頃ひそかに考えていたことを口に出してみたのである。
寺内大吉はいった。
「そりゃあ、いいだろう。しかし今さら同人雑誌にはいるわけにもいかないだろうから、懸賞小説でもやってみろ」
当時同人雑誌は猖獗(しょうけつ)をきわめると形容できるくらいに盛んだった。だがほとんど純文学志望者のためのもので、そこではたいてい合評という名のいじめや、文学論という名の空論が横行していた。
司馬遼太郎に「純文学」をやるつもりは、はじめからなかった。彼がもとめたものは「おもしろい話」に尽きた。それこそが文学の本道だと信じるところがあった。そして「おもしろい話」を語ることは彼の生理になじんだ。
司馬遼太郎自身、こう語っている。
「私は学生時代から文学青年のグループに属したことがないんです。むしろかれらを白い眼でみておりながら、そのくせ、おれが小説を書けばうまいんだと思っていた。ところがその反面、おれにはとてもかれらのような才能はない。あんなコワイ連中のところには近寄るまい、と思っていました。小説の世界からは遠い人間だったんです」(『手掘り日本史』のうち「わが小説のはじまり」)
実は、それ以前から司馬遼太郎は小説を書いていた。確認できる限りでの最初の作品は「わが生涯は夜光貝の光と共に」と題された短篇で、仏教雑誌「ブディスト・マガジン」創刊号に載せた。明治初年、すでに本家の大陸でも伝来地日本でも伝統技巧の失われた螺鈿(らでん)細工に魅せられ、その技法の追究と完成に生涯を費す男の物語だった。
そこには「芸術至上主義者」に対して司馬遼太郎が抱く距離感が早くもあらわれている。司馬遼太郎は「名人上手」と「技芸への執念」を、性として好まないのである。このとき彼は満二十六歳だった。
その六年後、五六年の年頭からは「花妖譚」と題した連作を、生け花の家元が主宰する「未生」という月刊誌に書いている。これは、とくに司馬遼太郎の作家キャリア前半期における短篇小説群の重要なサイドストリームとなった「怪異」への傾きが見てとれる作品である。寺内大吉に小説家たらんとする希望を「告白」したのはこの時期のことだった。