- 2021.08.13
- 特集
【特別公開】日本陸軍の「絶対悪」が生んだこの凄惨な事件。その無謀で愚劣な作戦を書き残す!
文:半藤 一利
『ノモンハンの夏』(半藤 一利)
ジャンル :
#ノンフィクション
,#政治・経済・ビジネス
参謀本部作戦課、そして関東軍作戦課。このエリート集団が己を見失ったとき、満蒙国境での悲劇が始まりました。
司馬遼太郎氏が最後に取り組もうとして果せなかったテーマを、共に取材した半藤一利さんが、モスクワのスターリン、ベルリンのヒトラーの野望、中国の動静を交えて雄壮に描き、混迷の時代に警鐘を鳴らします。
今回は半藤一利さんによる、単行本刊行時のあとがきを公開します。
横光利一の遺作に『微笑』という短篇がある。なかに、不利な戦況を逆転するために、殺人光線を完成させようとしている二十一歳の天才的な数学者がでてくる。「ぱつと音立てて朝開く花の割れ咲くやうな」笑顔をみせるこの青年は、殺人兵器が完成に近づいたとき戦争が終り、発狂死してしまう。戦争という狂気の時代を積極的に生きた横光の、戦後のつらくはかない想いが、この幼児のような「微笑」をただよわせながら殺人兵器をつくろうとしている青年を造型させたのであろう。
戦後少したって元陸軍大佐の辻政信氏とはじめて面談したとき、この『微笑』の青年が二重写しとなって頭に浮かんだ。眼光炯々、荒法師をおもわせる相貌と本文中に書いたが、笑うとその笑顔は驚くほど無邪気な、なんの疑いをも抱きたくなくなるようなそれとなった。
横光の小説のけがれのない微笑をもつ青年は発狂死した。まともな日常のおのれに帰れば、殺人兵器を完成させようとしていたことは神経的に耐えられない。精神を平衡に保とうにも保たれない。ふつうの人間とは、おそらくそういうものであろう。戦後の辻参謀は狂いもしなければ死にもしなかった。いや、戦犯からのがれるための逃亡生活が終ると、『潜行三千里』ほかのベストセラーをつぎつぎとものし、立候補して国家の選良となっていた。議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた「絶対悪」が、背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見るの想いを抱いたものであった。
大袈裟なことをいうと「ノモンハン事件」をいつの日にかまとめてみようと思ったのは、その日のことである。この凄惨な戦闘をとおして、日本人離れした「悪」が思うように支配した事実をきちんと書き残しておかねばならないと。
それからもう何十年もたった。この間、多くの書を読みつぎながらぽつぽつと調べてきた。そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深くて幅のある、ケタはずれに大きい「絶対悪」が二十世紀前半を動かしていることに、いやでも気づかせられた。かれらにあっては、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもっているものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、この精神をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲にならねばならないのである。
それほどに見事な「悪」をかれらは歴史に刻印している。おぞけをふるうほかのないような日本陸軍の作戦参謀たちも、かれらからみると赤子のように可愛い連中ということになろうか。およそ何のために戦ったのかわからないノモンハン事件は、これら非人間的な悪の巨人たちの政治的な都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人びとが死に、あっさりと収束した。そのことを書かなければ、いまさら筆をとることの意味はない。ただしそれがうまくいったかどうか。
それにしても、日本陸軍の事件への対応は愚劣かつ無責任というほかはない。手前本位でいい調子になっている組織がいかに壊滅していくかの、よき教本である。とはいえ、歴史を記述するものの心得として、原稿用紙を一字一字埋めながら、東京と新京の秀才作戦参謀を罵倒し嘲笑し、そこに生まれる離隔感でおのれをよしとすることのないように気をつけたつもりである。しかしときに怒りが鉛筆のさきにこもるのを如何ともしがたかった。それほどにこの戦闘が作戦指導上で無謀、独善そして泥縄的でありすぎたからである。勇戦力闘して死んだ人びとが浮かばれないと思えてならなかった。
一九九八年三月 半藤一利
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