さらに著者が巧みなのは、物語のポイントを家康の最晩年に絞ったことである。豊臣贔屓の上方講談の中には、大坂夏の陣で、幸村が家康を討ち取る演目もあるようだが、現代の時代小説では、ここまで大胆な歴史改変を行うのは難しい。だが、家康は元和に改元した翌年(一六一六年)に死んでいるので、伊賀組の警戒網を突破した佐助が家康を暗殺したが、徳川家がその事実を隠蔽したという伝奇的な展開にするのは難しくない。著者は、家康が鯛の天麩羅を食べ過ぎて死んだとの俗説などもからめながら、家康は佐助に殺されたのか、それとも史実通り病死だったのかを最後まで読めなくしているので、スリリングな展開が楽しめるのである。
司馬の『風神の門』では、幸村に仕える佐助も、一匹狼の才蔵も、自分の技術に自信を持ち、主家が滅びても修行で磨いた技を使えば生き延びることができると考えている。実力があるので、勤め先で出世を目指すのも、会社を見限って起業することも自由だった忍者たちは、明らかに高度経済成長期の技術者の姿が重ねられていた。
だが『風神の門』が刊行されてから半世紀以上が経過した日本では、社会構造が激変してしまった。数馬が所属する伊賀組は、かつては藤林党、百地党、服部党があったが、早くから家康に仕えた服部党は伊賀組のネットワークから離脱したとされる。これは、伊賀という企業の一部門が、徳川という大企業に買収されたといえる。残された二党も、徳川の仕事を請け負うことで生き延びているが、平和になり忍者の需要は減っていくので、今後の業績悪化は簡単に予想できる。そこで伊賀組は、将来を少しでも安泰にするため、クライアントの危険な要望に従っているが、一度は敗退したと考えていた服部党が復活するなど、過酷な競争にさらされている。
数馬たちは、伊賀組が生き残るための先兵として働いているが、自分と同等の忍者など掃いて捨てるほどいることを熟知しているので、将来に不安を感じていても組織を離れる決断はできないでいる。生と死が紙一重の文字通りの死地に行くことを命じられても、それに従うしかない数馬の悲哀は、正社員になるのが難しく、その立場を維持するために汲々とする人が増えている現状を写し取っているのである。
佐助たちの圧倒的な力を前に、伊賀組は次々と配下を失っていくため、数馬はめまぐるしく配置転換をされ、さほど昇進はしていないものの、どんどん責任が重くなっていく。伊賀組配下の死を、業績不振や合理化による人減らしに置き換えれば、数馬の置かれた立場は、同僚が少なくなり仕事量が増えた正社員の姿に近い。その意味でも、数馬の伊賀組内での立ち位置は、生々しく感じられるのではないだろうか。
本書には、伊賀組で働く数馬たち、伊賀組よりも早く武家社会に溶け込んだため、サラリーマン化が進んだ服部党の忍者、最後まで組織とは一線を画す佐助、反対に徳川家に接近してくる才蔵など、組織と個人の関係を問うケーススタディになるような忍者ばかりが出てくるので、必ず共感できる人物が見つかるように思える。
誰もが一度はヒーロー、ヒロインに憧れるだけに、主人公に感情移入できても、脇役に肩入れするのは難しい。しかし、ごく普通の忍者が、圧倒的に力の差がある佐助に翻弄される逆転の発想をした本書は、読者を否応なく弱者の側に立たせ、その絶望や恐怖をダイレクトに突き付けてくる。組織や社会の見方も、上からと下からではまったく違うという経験は、視野を広げ、硬直化した思考を解きほぐしてくれるだろう。
スーパーヒーローになれると思っていた子供も、年を取るにつれて平凡な人生を生きるしかないという現実を受け入れていくが、それは果たして不幸なことなのか? 伊賀組の忍びたちが最後に下した決断に触れると、その答えも見つかるはずだ。
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