高殿円は、異世界を舞台にしたファンタジー『マグダミリア』シリーズや、女性国税徴収官を主人公にした『トッカン』シリーズなど、多彩な作品を発表している。第二次大戦前夜のインドを舞台にした『カーリー』シリーズでは、史実を踏まえて物語を作っていたが、本書『剣と紅』は、戦国時代、女性でありながら井伊谷(いいのや)の地頭を務めた実在の人物・井伊次郎法師直虎(いいじろうほうしなおとら)の生涯を描いた初の本格的な歴史小説となっている。
直虎が養母として育てたのが、後に酒井忠次(さかいただつぐ)、本多忠勝(ほんだただかつ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)と並び、徳川四天王の一人に数えられ、井伊の赤備(あかぞな)えを率いた猛将でもある井伊直政(なおまさ)である。直虎は決してメジャーな人物ではないが、直政がいなければ江戸幕府の成立はなかったかもしれないので、直虎が日本史に残した足跡は想像以上に大きい。著者が、初の歴史小説で、直虎に着目したことをまず評価したい。ちなみに、直虎は梓澤要(あずさわかなめ)が『女にこそあれ次郎法師』で取り上げているので、本書と読み比べてみるのも一興である。
日本の家系図には女性の名前は書かれず、「女」とだけ表記されるのが一般的だった。そのため直虎を名乗る前の名もよく分かっていないのだが、著者は香(かぐ)という名だったとしている。井伊家の初代・共保(ともやす)は、生まれた直後に井戸の側に捨てられ、その時に橘の木を持っていたため(これには、井戸の側に橘の木があったからなど諸説ある)、井伊家の家紋は井戸をかたどった「丸」に「橘」となった。著者は、香の父・直盛が、『古事記』にある永遠の命をもたらす霊薬「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」の正体が、井伊家ゆかりの橘だったことから、娘に香と命名したとする。これは史実を踏まえた設定であり、香が生まれた時から、井伊家を永遠に存続させる宿命を背負っていたとすることで、史料が少ない直虎に、確かな存在感を与えることに成功している。
また香が、「次郎法師」と名付けられたのも史実だが、この名の由来は、直盛に男子がなく、娘に同族から養子を迎えることが決まっていたため、二つの家の総領名をつなぎ合わせたというのが定説である。ここから著者は想像の翼を羽ばたかせ、香には未来予知をする異能があり、千里眼を持つとされる遠州の座敷童「小法師」にちなんで、「小法師」と呼ばれていたという大胆なフィクションを織り込んでいる。