十六の年に突然、性格激変した麻之助。その謎ときは、前作・前々作に詳しい。憧れのひとは、親友・清十郎の父親の後添えであるお由有(ゆう)。お由有が若くして後添えにならねばならなくなったいきさつ、麻之助自身、別の女性・お寿(すず)の身代わり恋人をひきうけたのが、ホントに結婚することになったなりゆき。浮き世を飄々(ひょうひょう)と生きているように見える麻之助にしてみれば、己の恋だけはどうにもうまく捌ききれない。いつも行き違いになってしまう。人生ってそんなもの、と軽く受け流したいところだが……実際そう思って軽薄な生き方をしているのかもしれないが……この秘めたる想いは、この第三作にいたっても、物語の奥底に残存し消えない傷みとなっている。そこがせつない。やるせない。
そして、平然を装って日常を生きながらも、他方傷みを抱え込んでいるその状況こそが、麻之助の洞察をきっと鋭いものにしているのでは、と思えるような事件捌きに見えて来る。
本書では、麻之助の妻・お寿ずが懐妊し、高橋家ではその吉事に沸き立ついっぽう、麻之助の心のうちにある変化が訪れる。大筋のところでは実に驚くべき展開があり、ウソがまことになり、まことがウソになる、そんな恋愛模様に驚かされながら、評者は、ふたたび江戸の町中の様子にひきこまれていた。
「置いてけ堀」と渾名された堀での失踪・金品喪失事件を「河童伝説」とからめて描いた「おさかなばなし」、狂歌と書画のトップ争いを、イベントの客寄せで計ろうとしたユーモラスな「お江戸の一番」、奇妙な恋文に振り回されたのをきっかけに少女時代のお寿ずの意外な姿が明かされる「御身の名は」、江戸の持参金問題を詳細に語る「おとこだて」、湯島天満宮で催された富くじ興行(所謂、宝くじ)の予言をめぐって不吉な言説がとびかう「鬼神のお告げ」、暦による吉兆から破談になった事件の真相を追う「こいわすれ」。ほんの短い一年ほどのあいだに起きた六つの事件がおさめられている。
のんびりと軽やかな筆致は変わらない。現代小説を読み慣れた読者には、やや違和感があるかもしれない。だが、それでいいのだと思う。評者は昔、杉浦日向子のマンガを初めて読んだ時の、あの奇妙な感覚を思い出した。思いっきり魅力的な絵が見えているのに、そこに簡単にはいりこめないもどかしさ。そして気づく。物語の時間に体をあわせることが必要なのだと。『指輪物語』がそうであったように、ここでは物語のなかの時間の流れ方が違うのだ。
「こいわすれ」では、ふたたび物語の江戸時間に体が慣れ始めると、おそろしく忘れがたい江戸情緒に囲まれているのに気づく。あるいは、ひとつひとつのことばを吟味したかのように緻密な異空間にのみこまれるように感じる。本書の持ち味は、第一作目の「まんまこと」のころより、第二作に収録された「みけとらふに」以後に見え隠れしていた妖かしの気配が次第に濃厚になってきたな、という感触だ。理知と才気で突っ走るかのような、輝くような若さから始まったこの物語が、なぜ徐々に幻想力にとりつかれるにいたったのか。お寿ずの妊娠・出産という神秘的な現象がいかなる怪異を呼び覚ましたのか。ここに至る展開に呆然としたわたしは、最終頁を閉じながら、しばし涙が止まらなかった。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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