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ウソがまことに、まことがウソに

ウソがまことに、まことがウソに

文:小谷 真理 (文芸評論家)

『こいわすれ』 (畠中 恵)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 考えてみれば、ファンタジー・ファンはおたくの巣窟、歴史&時代小説愛好家も好事家(こうずか)の巣窟。双方のカルチュアが似ているのは事実。こうして、舶来大好き翻訳小説フェチのわたしも、徐々に江戸という時代に興味を持つことになった。しかしまったく同時に、「しゃばけ」シリーズは、多くの江戸ものファン、とくに時代小説ファンの心をわしづかみにしたのではあるまいか。

 そんな折、〈小説新潮〉二〇〇五年八月号に、畠中氏と推理小説家の北森鴻氏との対談が掲載された。畠中氏は、まさに上記、好事家としての背景を垣間見せ、水を得た魚のように語っていた。その内容は、時代小説への造詣(ぞうけい)の深さを漂わせ、江戸ものの背景を実に念入りにリサーチしている様子をうかがわせるもので、「そのうち妖怪抜きの時代小説にチャレンジしたい」と意欲満々であった。はたしてその年の〈オール讀物〉七月号、つまり対談と前後して、『まんまこと』の第一作が登場しているから、「おー、あれってこのことだったのだな」と判ったのである。

 では、妖怪抜きの趣向はいかがなものだったのか?

 ここに登場した時代小説「まんまこと」は、しぶい大人の名主や同心たちが、人生の酸いも甘いもかぎわける横顔を灯心に映し出しながら事件解決するミステリ=捕物帳……ではなく、むしろ跡取りのお坊ちゃまたちによる、日常の諍(いさか)い捌(さば)きを描く。江戸では、大事件はお上が捌けばよい。そこまでいかない民間の様々な諍いを町名主は捌けばよい。と、事件解決にまつわる区分としては、お上が刑事裁判なら、町名主は民事裁判といった感じで存在している。

 しかし、「まんまこと」シリーズは、町名主にもならない、いわば町名主未満の息子たちが、父親たちの代理と称して揉め事に立ち入り、あるいはもっと些細な謎に取り組む、という筋書きなのだ。第二作以降は、その事件に「怪異」が入り込んできて、「しゃばけ」ファンとしては、「やっぱりこうこなくっちゃ」と喜んだものだった。もちろん怪異は、大仰でおどろおどろしいものではなく、庶民たちのお話のささやかなネタくらいの風味におさえられていたが、でも怪異は怪異なのだ。日常において、人がいかに不思議系の話を必要とするかの洞察が、やさしく示唆されていた。

 ともあれ、とかく捌きのスキルアップは体験を積み重ねるしかないから、本シリーズは、サラブレッドたちの修業時代という意味合いもあるだろう。こうして彼らの青春が描かれていくわけだが、興味深いのは、物語全体に、麻之助の恋愛模様が大きく関わっていることだ。そう。このシリーズは、秘めた恋を描いた恋愛小説にもなっているのである。

 

 十六の年に突然、性格激変した麻之助。その謎ときは、前作・前々作に詳しい。憧れのひとは、親友・清十郎の父親の後添えであるお由有(ゆう)。お由有が若くして後添えにならねばならなくなったいきさつ、麻之助自身、別の女性・お寿(すず)の身代わり恋人をひきうけたのが、ホントに結婚することになったなりゆき。浮き世を飄々(ひょうひょう)と生きているように見える麻之助にしてみれば、己の恋だけはどうにもうまく捌ききれない。いつも行き違いになってしまう。人生ってそんなもの、と軽く受け流したいところだが……実際そう思って軽薄な生き方をしているのかもしれないが……この秘めたる想いは、この第三作にいたっても、物語の奥底に残存し消えない傷みとなっている。そこがせつない。やるせない。

 そして、平然を装って日常を生きながらも、他方傷みを抱え込んでいるその状況こそが、麻之助の洞察をきっと鋭いものにしているのでは、と思えるような事件捌きに見えて来る。

 本書では、麻之助の妻・お寿ずが懐妊し、高橋家ではその吉事に沸き立ついっぽう、麻之助の心のうちにある変化が訪れる。大筋のところでは実に驚くべき展開があり、ウソがまことになり、まことがウソになる、そんな恋愛模様に驚かされながら、評者は、ふたたび江戸の町中の様子にひきこまれていた。

「置いてけ堀」と渾名された堀での失踪・金品喪失事件を「河童伝説」とからめて描いた「おさかなばなし」、狂歌と書画のトップ争いを、イベントの客寄せで計ろうとしたユーモラスな「お江戸の一番」、奇妙な恋文に振り回されたのをきっかけに少女時代のお寿ずの意外な姿が明かされる「御身の名は」、江戸の持参金問題を詳細に語る「おとこだて」、湯島天満宮で催された富くじ興行(所謂、宝くじ)の予言をめぐって不吉な言説がとびかう「鬼神のお告げ」、暦による吉兆から破談になった事件の真相を追う「こいわすれ」。ほんの短い一年ほどのあいだに起きた六つの事件がおさめられている。

 のんびりと軽やかな筆致は変わらない。現代小説を読み慣れた読者には、やや違和感があるかもしれない。だが、それでいいのだと思う。評者は昔、杉浦日向子のマンガを初めて読んだ時の、あの奇妙な感覚を思い出した。思いっきり魅力的な絵が見えているのに、そこに簡単にはいりこめないもどかしさ。そして気づく。物語の時間に体をあわせることが必要なのだと。『指輪物語』がそうであったように、ここでは物語のなかの時間の流れ方が違うのだ。

「こいわすれ」では、ふたたび物語の江戸時間に体が慣れ始めると、おそろしく忘れがたい江戸情緒に囲まれているのに気づく。あるいは、ひとつひとつのことばを吟味したかのように緻密な異空間にのみこまれるように感じる。本書の持ち味は、第一作目の「まんまこと」のころより、第二作に収録された「みけとらふに」以後に見え隠れしていた妖かしの気配が次第に濃厚になってきたな、という感触だ。理知と才気で突っ走るかのような、輝くような若さから始まったこの物語が、なぜ徐々に幻想力にとりつかれるにいたったのか。お寿ずの妊娠・出産という神秘的な現象がいかなる怪異を呼び覚ましたのか。ここに至る展開に呆然としたわたしは、最終頁を閉じながら、しばし涙が止まらなかった。

文春文庫
こいわすれ
畠中恵

定価:715円(税込)発売日:2014年04月10日

電子書籍
こいわすれ
畠中 恵

発売日:2019年11月27日

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