なので、時代小説の書き手としては、私は随分と偏っているのではないかと思います。たとえば、時代設定です。
時代小説、というと、人情ものでない限り、戦国、あるいは幕末を扱うことが多くなるのではないでしょうか。けれど、私はそのどちらにも関心が持てません。「下克上」とか「尊王攘夷」といった大きなキーワードで、人間が動く時代にはどうにも惹かれないのです。
それは私が、いわゆる団塊の世代の一人だからかもしれません。私たちの人格形成期にも、大きなキーワードが用意されていました。大きなキーワードが用意される、ということはつまり、流れるプールで泳いでいるようなものです。適当に手足をゆらゆらさせていれば、とりあえず体は流れの方向へ運ばれていきます。自分では泳いでいないのに、体は動く……それがずっと続くと、そのうちには自分の力で泳いでいるような気になったりします。そうでなくとも、ゆっくりと泳いでいるだけなのに、全力で泳いでいるように錯覚しがちです。一人一人が、嵩(かさ)上げされるのです。
書き手としての私が惹かれる時代は、このまったく逆になります。ばったりと流れが止まって、もうどうにも動こうとしない時代。耳触りのよいキーワードなど振りまきようもなく、なにが正解なのか皆目わからない時代。だからこそ、一人一人が己の頭と身体で考え抜いて、自分だけの正解を探し出し、動かなければなりません。不細工でもなんでも、もがかざるをえないのです。そう、いま、です。いまという時代は、流れに乗るのではなく、自らほんとうに動いている人が、くっきりとする時代であると、私は思います。
江戸時代で言えば、一七〇〇年代後半の武家が同じような状況にあります。
武家というのは、その軍事力で世の中の支配層となりました。が、戦国が終わって百五十年も経てば、もはや槍を向ける敵軍など国内にいません。徳川幕府の存在理由は「武威」であり、つまりは一度でも負けたら政権の正当性を失うため、対外的にも徹底して戦を避けます。強さを売り物にしているからこそ、戦うことができなくなるのです。その上、商品経済の発展に連れて、各国の財政は窮迫する一方であり、為政者たる武家には、軍事力よりも行政手腕が問われるばかりになります。
そこに武家のアイデンティティ・クライシスが起きます。いまも重い刀を腰に二本差して、腰痛に悩まされながら、日々の勤めにあくせくしている自分は、いったい何者なのだろうということです。
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