だが作者は、そうした展開に後半、意外なひねりを加えてみせる。互いのエモーションや欲望は変質を免れるとしても、二十世紀の世界の激動に傍観者として延々と立ち合い続けるうちに、コウヤとカミーユのあいだにはいつしか、根本的な食い違いが生じてしまうのだ。それは彼らの眼前で繰り広げられる人間の歴史そのものをいったいどうとらえ、どう考えるかをめぐる差異である。「同じ感情で人間と向かい合ってちゃ苦しくなるだけ」とカミーユはいう。そして彼女は「超越」を、さらにはこの世界の改変を真剣にめざすようになる。いっぽうコウヤは、カミーユが示すそうした変化になかなかついていけない。カミーユから見れば彼は「センチメンタル」すぎ、人間に同情的すぎる。そんな二人の齟齬が、いったい物語をどういう方向に導いていくことになるのかは、ぜひご自分の目で見届けていただきたい。
二人のあいだに芽生える対立は、意志の力でとことん現状に介入しなければ気がすまない西欧的精神と、人の世のあわれを深く感じ取る日本的心情の対立というふうにも見える。あるいは、恋人たちの棚上げしがちな歴史の問題が、結局は回帰してきたのだとも考えられる。いずれにせよ、愛にとっては永遠よりも「別れ」が、終わりのほうが重要なのではないかというコウヤの述懐は、読者の胸にも強くこだまするにちがいない。
そしてまた強烈に印象づけられるのは、作者・辻仁成の、奔放にしてエネルギッシュな筆の運びである。たとえば月夜の晩、カミーユが実に久しぶりに突然訪ねてきて、二人が激しく愛をかわす場面。体と体をぶつけあうなまなましい光景に、血に染まる日章旗や爆撃機の轟音、公害で汚染された河川や海のあり様がかぶさり、「世界中、至る所で歴史が強引に捲られ続け」るイメージがぶつけられる。そのまさに強引なまでの衝動的文体に、辻氏の作家としての尽きることないエネルギーと意欲を実感するのである。
物語の最後で、コウヤが「終わらない物語」の作家としての姿を明らかにするとき、そこに辻氏自身の面影を重ねたくなる。吸血鬼としての、永遠者としての小説家。それは倦まず大作に挑み続ける辻氏の目標とするところであるとともに、日々の在り方そのものでもあるに違いない。
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