仕事場の壁に昔の江戸の地図をかけて、毎日眺めている。
日本橋の書店、須原屋で文政十一年に板行された一枚刷りの復刻板である。
江戸の地図は毎日見ていても飽きない。というのが、現在の地図のように実用一点張りでないからだ。たとえば、寺社のある場所には社殿や鳥居が描き込まれている。道しるべになりそうな松や杉の木も絵になっている。海の上には帆かけ船が浮かんでいる。
そして、当時の印刷技術にもびっくりする。
この地図はほぼ80×70センチの大きさだが、どこを見ても刷りの継ぎ目が見えない。とするとこの大きさの一枚板に彫って刷りあげたわけで、その大きさにも驚ろきだが、虫眼鏡で見なければ判らないような文字が、びっしり刷られている職人の腕は、神技としかいいようがない。
そして江戸の地図だが、江戸の中心はもちろん江戸城である。ただし、そのころの約束通り、城内と大名屋敷は白ヌキになっている。白ヌキの部分に大名家の定紋が描かれているから、文字の読めない人にもどの大名かが判る。当時、大名の定紋は常識として江戸町人が知っていた。
江戸の中心は江戸城で、そこには堂堂とした徳川葵の紋が描き込まれている。この江戸城はとてつもなく広く、調べてみると総面積二十二万余坪、そのほぼ半分は吹上の庭で、万古斧鉞(ふえつ)の森林である。
城は関東平野の中央の小高い場所に築かれている。明暦の大火で焼失するまでは、江戸のどこからでも城の天守閣を望むことができた。
城の周囲は堀割に囲まれていて、更にその内外に徳川家歴代の大名たちが屋敷を構えている。一目で外敵への守備が万全だということが判る。
堀割は城を囲みながら大きくのの字を書いて、市街地をぐるりと巡りながら大川に落ちる。江戸の町は細かく堀が枝分かれして、どんなところにも船が出入りし、生活物資を運んだり、船遊びが楽しめる仕組みになっている。
北に関東平野の肥沃な土地を背にする一方、南の江戸前の海もまた豊かな魚介類に恵まれている。
江戸前の海は穏やかな湾で、上方より酒を運んで来るのにうってつけである。杉の木の樽に詰められた酒は、何日も海の上でゆらゆらと練られて丸味のある味になって運ばれて来る。江戸には税金などというものがなかったから、豊作の年の酒はびっくりするほど安かった。
と、江戸の地図を見ながら、以上のようなことを考え、江戸の生活はなかなか快適なように思えるのである。
ところで、そこに住む町人たちはどうだったのか。それには『江戸名所図会』を見るといいだろう。
『江戸名所図会』は神田の名主であった斎藤幸雄と子、孫の三代が三十余年の歳月をついやして書きついだ江戸の絵入り地誌である。全七巻二十冊。
これも地図と同様、実物は手に入らない。一九六六年より、角川文庫の全六冊本を愛読しているが、もうだいぶぼろぼろだ。
まずはじめは「江戸東南の市街(いちまち)より内海を望む図」で、元日の朝、太陽が海から顔を覗かせはじめたところが描かれている。大著の幕開けにふさわしい雄大な図である。
今と違い、高層ビルなどのない時代だから、江戸中から日の出が拝めた。初日の出というとやはりいつもとは違う。多くの人たちは荘厳な日の出を拝んで清清しい気持で新しい年を迎えるのである。
次は「元旦諸侯登城の図」。町人なら初日の出を拝んで再び蒲団の中に戻ることもできるが、大名となるとそうはいかない。登城して将軍に拝謁しなければならないのだ。登城時刻は卯の刻(午前七時)で、行列を作るには夜中から準備に大忙しだったはずだ。
行列の先頭は二人で、挟箱(はさみばこ)をかついで並んでいる。そのあとには、直垂(ひたたれ)を着た従者が白い袋に入った長柄傘(ながえかさ)、毛槍(けやり)、長刀(なぎなた)などをそれぞれ持って続き、後方には殿様が乗った乗物のまわりを何人もの家来たちが取り囲んでいる。
もう一組の行列は、狩衣(かりぎぬ)に烏帽子(えぼし)をつけて馬に乗っている侍が中心になっている。そのうしろに長柄傘、長い槍を持った家来が続いている。
この行列を近くで見物している町人たちがいる。『図会』にはこのほか無数の町人が登場するのだが、その表情は例外なく明るく、好奇心に満ちている。人人は熱心に寺社を参詣したあと、いそいそとして名所や盛り場を目差すのである。
江戸市街の中心は日本橋、橋の上には「えっ?」というほど大勢の人が往き来している。祭礼を思わせるような雑踏で橋の下の混雑も負けてはいない。山ほど荷を積み込んだ船や屋形船が川面を埋めつくしている。その間を小形の猪牙船(ちょきぶね)がすいすい通り抜けていく。ちょうど渋滞している道での若者のオートバイのようだ。
江戸は少し歩けば郊外で、美しい自然に接することができた。
江戸の地図や『江戸名所図会』を見ていると、決してあくせくしない、ゆったりとした時間が流れているのが判る。たまにはこういう江戸に行ってみたいと思うのだが、現実はそうはいかない。
それで、江戸を舞台にして、魅力ある人物を活躍させている。宝引の辰、女房のお柳、娘のお景。そして、半端の松吉や算治といった仔分たち。美人の舞踊師匠の白蝶、手妻師の夜光亭浮城、音曲師の清元閑太夫、戯作者の岩沢二亭など。どれも気のいい人ばかりなので、どうか仲良くしてやってください。