本書は「髪結い伊三次捕物余話」シリーズなどで知られる宇江佐真理が、二〇〇六年に発表した時代小説『大江戸怪奇譚 ひとつ灯せ』の文庫版である。二〇一〇年にも一度文春文庫に収められているので、今回はその新装版という位置づけになる。時代小説ファンのみならず怪談文芸ファンにも愛されてきた名作が、令和の時代によみがえったことをまずは喜びたいと思う。
『ひとつ灯せ』はいわゆる百物語の形式を借りた連作集で、「話の会」と呼ばれる集まりのメンバーが口々に怪談を披露するうち、自らも怪しき事件の当事者となっていく……という不思議でちょっぴり怖い時代小説だ。とはいってもそこは人情時代小説の名手・宇江佐真理のこと、市井に生きる人々の歓びや哀しみを鮮やかに掬い取っており、深い味わいのある物語に仕上げている。“怪談”と聞いて「怖いのは苦手」と思わず尻込みした人も、どうか安心して手に取っていただきたい。
ところで百物語というのは江戸時代に流行した遊びの一種で、一堂に会した人々が一晩で百の怪談を語りあうという、日本に古くから伝わる遊びである。百物語にはさまざまな作法が伝わっているが、有名なのは百本の蝋燭を灯し、一話語り終わるごとにひとつずつその火を消していく。百本目が消えたときには、怪しいことが起こるというものだろう。
もともとは武士の肝試しのようなものだったらしいが、それが町人にも広まり、粋人の遊びとして普及したと言われている。本書で主人公の平野屋清兵衛が加わった「話の会」も、そのような江戸時代の流行を背景にしているのだろう。
さて百物語は、日本の文学にも大きな影響を与えている。江戸時代から『諸国百物語』『太平百物語』など〈百物語〉の語を冠した怪談本が生まれているし、明治以降にも百物語の形式を借りた小説がいくつも書かれているのだ。その代表的なものといえば、「半七捕物帳」シリーズの生みの親・岡本綺堂が大正時代に発表した『青蛙堂鬼談』だろう。青蛙堂主人を名乗る紳士のもとに会した男女が、一人ずつ怪談を披露していくというスタイルのオムニバス短編集で、しっとりした江戸情緒と鋭い恐怖が融合した物語の数々は、今読んでもとても面白い。
以降、百物語形式の連作小説はさまざまな作家によって試みられており、わが国の怪談文芸のひとつの流れを作っている。本題から逸れてしまうので詳しく立ち入ることはしないが、戦前では野村胡堂の『奇談クラブ』などの例があり、現代でも都筑道夫の『深夜倶楽部』、浅田次郎の「沙髙樓綺譚」シリーズ、宮部みゆきの「三島屋変調百物語」シリーズなどが書かれている。
それにしても作家たちはなぜ、百物語を好んで取り上げるのだろうか。ひとつにはオムニバス形式の短編を自然な形で成立させるために、便利な枠組みだという事情があるだろう。統一感を出しつつバラエティ豊かな短編集を作り上げるうえで、もってこいの形式なのだ。
加えて百物語には、あえて非日常に身を浸すことから生まれる楽しさがある。年齢も立場も異なる人々が一堂に会し、怪談に打ち興じるというのは、考えてみるとかなり特殊な状況だ。そこに加わることは忙しない日常からの逃避であり、非日常空間で出会った人々の間には親密なムードが漂う。学生時代の修学旅行の夜、声を潜めて怪談を語りあったあの楽しさを、紙上で追体験させてくれるのが百物語形式の物語なのだ。
百物語にまつわる記述がやや長くなってしまったが、本書もそうした怪談文芸の系譜上に位置する作品である。しかも従来の百物語小説にはなかった、著者独自の視点が盛りこまれており興趣が尽きない。では本書の特徴や独自性はどのあたりにあるのか。あらすじを辿りながら考えてみたい。
物語の主人公・平野屋清兵衛は、江戸の山城町にある料理茶屋・平野屋の七代目主人である。五十二歳で息子に店を譲り、現在は楽隠居の身の上だが、暇ができたことで死の恐怖を感じるようになる。人生五十年と言われていた時代、いつ死んでも不思議ではないのだ。しかしその病的な怯えは、清兵衛に取り憑いていた死神によって引き起こされていた。それを見抜いた幼馴染みの蝋燭問屋・伊勢屋甚助は、霊感で死神を追い払った後、清兵衛を「話の会」に誘う、というのが第一話「ひとつ灯せ」の前半である。
「話の会」というのは自らが体験したり、見聞きしたりした不思議な話を順に披露するという集まりで、甚助の他に菓子屋・龍野屋の主人・利兵衛、一中節の師匠であるおはん、医者の山田玄沢、儒者の中沢慧風、そして北町奉行所の同心・反町譲之輔が名を連ねている。そこに新たなメンバーとして、清兵衛が加わったのだ。
百物語形式の小説といえば、舞台になる家や座敷が毎回同じであることが普通だが、メンバー持ち回りで会場を用意するのが「話の会」のユニークなところ。第二話の「首ふり地蔵」では、料理茶屋として評判の高い平野屋で会が開かれることになる。「ひとつ灯せ~」「ええい!」という毎回恒例のかけ声に続いて語られたのは、反町が遭遇した風変わりな事件。さらに清兵衛は甚助の口から、うんうんと頷く地蔵にまつわる怪談と、おはんの悲しい過去の物語を聞くことになった。
「どういう訳か怪談を始めると、奇妙なことが起きるよ」。霊感のある甚助のそんな言葉を裏づけるようにやがて怪しいものの気配は、語りの枠をはみ出して、清兵衛の日常にまで忍び寄ってくる。
続く第三話「箱根にて」では、足を痛めた反町の湯治を兼ねて、「話の会」のメンバーは箱根に出かけていく。旅に出ることの少なかった江戸時代の人々の、喜びが伝わってくるようなエピソードだ。そして旅先でのある女性との出会いが、清兵衛の心に強い印象をもたらすことになる。辛い運命に絶望することなく、生き続けることを選んだ尼僧・徳真。その人生に触れたことで、死を恐れていた清兵衛の何かが変わる。
ところが第四話「守」から、物語のトーンは一転不穏なものとなっていく。一人箱根に行くことができなかった龍野屋利兵衛が、旅の土産話への不快感をあらわにし、とりわけ清兵衛に悪意を向けてくるのだ。その背後には魅力的なおはんの存在や、菓子屋の経営がうまくいっていないという微妙な事情も絡んでいる。こうした人間関係の軋轢は、おそらく読者も一度や二度は経験したことがあるのではないだろうか。「悋気(嫉妬)は幾つになってもあるんだね」という清兵衛がもらした一言に、著者の鋭い人間観察がきらりと光っている。
こうして「話の会」は物語中盤にして早くも、終わりの気配を漂わせ始める。第五話「炒り豆」では儒者の慧風が夢枕に立つ弟子の姿に怯え、第六話「空き屋敷」では夜な夜な物音がするという怪しい屋敷に「話の会」のメンバーが泊まりこむ。第七話「入り口」では清兵衛たちの見ている前で、反町が神隠しのように消えてしまう。終盤に近づくにつれ、清兵衛にとって怪異はいよいよ身近なものとなり、「話の会」のメンバーが不思議な事件の当事者となることが増えていく。ここが従来の百物語小説と、本書の大きな相違点だろう。
岡本綺堂の『青蛙堂鬼談』に代表される先行例において、百物語はあくまで粋人たちによる遊戯であり、そこで語られる怪談と参加者の間には一線が引かれていた。しかし本書における怪談は、どこかの誰かが体験した絵空事ではなく、清兵衛たちメンバーにとって重たい意味をもつ“自分ごと”なのである。その背後には、哀しみや恨み、寂しさや悔しさなどさまざまな感情が渦を巻いている。「話の会」は回を重ねるごとに苦さを増していくが、それは人の一生が苦いものであるからに他ならない。
さまざまな事件を経て、最終話「長のお別れ」が語られる。タイトルから推察されるとおり、「話の会」の終わりを描いたエピソードだ。物語序盤において死を恐れていた清兵衛が、どんな心の境地に達したのか。それはぜひ本文で確かめていただきたいが、ページを捲るごとに濃くなっていく死の気配と無常観、そして一条の光が差し込むかのような幕切れは、多くの読者にとって忘れがたいものになることだろう。
陰影に富んだ人間ドラマと多彩な怪異が詰まった本書のテーマを、あえて一言でまとめるなら“死を受け入れる”だろうか。アメリカの人気ホラー作家スティーヴン・キングは、ホラーとは死のリハーサルである、ということをしばしば述べている。さまざまな恐怖や苦痛を扱うホラー小説は、やがて訪れる死の恐怖を和らげる効果があるのだと。『ひとつ灯せ』で描かれる百物語にも、それに近い意味合いがある。
清兵衛をはじめとする「話の会」の面々は、怪談によってこの世の不可思議さに触れ、目には見えない世界が存在しているらしいことを知る。そしてそのことが、死の恐怖を和らげ、自分の運命にあらためて向き合う決意を得る。いわば“終活としての百物語”だ。それは現代を生きる我々にとっても、無視することのできない大きな問題だろう。
ところで本書の参考文献の一冊として、『新耳袋――現代百物語――第六夜』という本が挙げられていることにお気づきだろうか。「新耳袋」は木原浩勝と中山市朗の二人によって著された怪談実話本(一九九八年~二〇〇五年、全十巻)で、著者が体験者から取材した不思議なエピソードが各巻九十九話ずつ収録されている。「現代百物語」とサブタイトルで謳われているとおり、江戸時代に流行した百物語怪談本を現代に復活させたシリーズだ。
「新耳袋」シリーズは刊行当時大きな話題を呼び、怪談や百物語といった日本古来の楽しみにあらためて注目が集まる契機となった。「新耳袋」のヒットはさらなる怪談本や怪談専門誌の登場をうながし、平成期の怪談文芸ブームへと繋がっていく。「新耳袋」シリーズの刊行中に「問題小説」誌上での連載(二〇〇四年~〇六年)がスタートした『ひとつ灯せ』は、宇江佐真理による平成期の怪談再興運動へのレスポンスと見なすことができるかもしれない。
その「新耳袋」シリーズの第六巻(まさに本書の参考文献に挙げられている巻である)の文庫版解説において作家の恩田陸は、怖い話とは誰もが慣れ親しんできた、懐かしい世界であると述べたうえで、その懐かしさをこう分析している。
「その世界はすぐそこにある。誰の後ろにも幼い頃から影のようにぴったりと寄り添い、存在してきた。ずっと心のどこかで知っているのに知らない世界。いつかはそこに足を踏み入れることを予感し望んでいる世界でもあり、知らないことに安堵し、感謝するための世界でもある。こうしてみると『怖い話』は『死』に似ている」
怖い話は死に似ている。ひょっとして宇江佐真理に本書を書かせたのは、この解説の一節だったのではないか。そう妄想してしまいたくなるほど、本書には怪談のもつ不気味さと懐かしさが見事に描き込まれている。本書は名手の手になる優れたエンターテインメントだが、人生の本質に触れるような深さと広がりがある。優れた怪談は人生の実相を映し、忘れかけていた大切なものにあらためて目を向けさせてくれるのである。
本稿の冒頭で、怖い話が苦手な人にもぜひ読んでほしいと書いたのは、このためでもある。今回の再文庫化を機に、清兵衛の終活を描いたこの物語が、あらためて多くの読者に読まれることを願ってやまない。
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