歴史時代小説には、吉川英治『宮本武蔵』、藤沢周平『蝉しぐれ』、宮本昌孝『剣豪将軍義輝』、葉室麟『あおなり道場始末』など、剣の修行を通して成長する若者を描く青春小説の系譜がある。冲方丁〈剣樹抄〉シリーズも、この列に加わる作品である。
物語の舞台は、明暦の大火の直後、四代将軍・徳川家綱の時代で、火災に強い新たな江戸が再建されている途上である(今の東京に痕跡が残る江戸の町並みの多くは、明暦の大火後の都市計画で造られたものである)。江戸時代に入ると武士は兵士ではなく官僚としての役割を求められ、武術や学問に秀でていても親の跡を継ぐだけで出世は望めず、家督は長子相続が原則になったので次男以下は養子先が見つからないと実家で飼い殺しのような扱いを受けた。まだ合戦で武勲をあげれば出世ができた戦国の気風が残っていたので、生まれてきた時代が悪かったと自暴自棄になり暴力沙汰を起こす武士も少なくなかったようだ。社会に殺伐とした空気が流れていただけに、作中で描かれるような火付け、盗賊との派手な戦闘があっても不思議ではなく、著者はアクションもあれば頭脳戦もある諜報戦を描くのに絶妙な時代を選んだといえる。なお戦国的な武断の気風が排除され文治政治になっていくのは、本書の舞台となる家綱の時代以降になる。
徳川光國は、父の頼房に特殊な能力を持った捨て子を間諜に育てる幕府の隠密組織・拾人衆の束ねを引き継ぐよう命じられる。明暦の大火を起こした火付け犯を追う光國は、その一味らしい浪人に木剣を手に我流の剣法で立ち向かう了助を目にし、剣の才能を認め拾人衆に引き入れる。拾人衆は、コナン・ドイルが生んだ名探偵シャーロック・ホームズを助けるストリートチルドレンの集団ベイカーストリート・イレギュラーズを、拾人衆に一度見たものは忘れず絵に描けるみざるの巳助、一度聞いた声を真似られるいわざるの鳩、遠くの声が聞き取れるきかざるの亀一ら異能の持ち主がいるのは、一芸に秀でた食客を集めた孟嘗君の逸話を想起させるので、拾人衆は西欧のエンターテインメント小説と東洋の歴史から生まれた異色のハイブリッドに思えてならない。
明暦の大火が広がった裏には、火付け、強盗を繰り返す極楽組の暗躍があり、さらなる陰謀をめぐらす極楽組と了助ら拾人衆との戦いが本格化する。その過程で、実父を殺したのが自分が慕う男と知った了助は仇討ちをしようとするが、列堂義仙に取り押さえられ、廻国修行として日光へ向かう。これが『剣樹抄』と続編『剣樹抄 不動智の章』の概要で、シリーズ第三弾となる本書『剣樹抄 インヘルノの章』は、了助と義仙の旅の途中から始まる。前作のタイトルは、何物にも動かされない智慧を意味する仏教語で、義仙との旅で禅に触れた了助が、実父を殺した男への恨みを乗り越えようとした。キリスト教で地獄を意味するインヘルノをタイトルにした本書は、過去に囚われ憎悪を募らせた者たちが江戸を地獄にする陰謀に、成長した了助が挑むことになる。
〈剣樹抄〉シリーズは巧みに虚実を操っており、勝山、水野十郎左衛門、幡随院長兵衛ら実在の人物のエピソードを物語にからめている。さらに無宿人に育てられた了助の目で、武断から文治への世の変化に対応できなかったり、昔を懐かしんで変化を拒む者たちが起こす事件を見ることで、武家社会の矛盾を暴いている。シリーズ全体を貫く構図は、長引く経済の低迷が好景気だった昭和を懐かしむ風潮を生み、生活のために理不尽に耐えることを強いるケースもある現代日本と重なる。了助が迷い苦しみながらも、こうした後ろ向きな思考に立ち向かうからこそ感動と痛快さが味わえるのである。
〈剣樹抄〉シリーズは現代の特に若い世代が共感できる物語になっているが、それだけではない。了助の宿敵になる剣客・錦氷ノ介は、初登場時は隻腕で後に隻眼になり、「悪目立ちする姿と美貌」で口元には冷笑をうかべ、「女物の羽織をわざわざかけて風になびかせ」る傾いた格好をしている。隻眼隻腕、女物を身に着けているところは林不忘が生んだ怪剣客・丹下左膳を、また美男子でニヒルなところは柴田錬三郎が生んだ眠狂四郎を彷彿させる。日光を目指す了助と義仙の旅は、財宝の在り処を記す「こけ猿の壺」を手に入れた少年チョビ安を守って丹下左膳が日光へ向かう林不忘『丹下左膳 こけ猿の巻』『丹下左膳 日光の巻』を思わせるなど、名作のエッセンスが導入されているので、古くからの時代伝奇小説のファンも満足できるだろう。列堂義仙(創作物の中では柳生烈堂などの表記もあり)は、小池一夫原作、小島剛夕画の劇画『子連れ狼』などの影響もあり、汚れ仕事を引き受ける柳生の刺客集団・裏柳生のトップとされることも多いが、著者は柳生家の菩提寺・芳徳寺の初代住持になった禅僧という史実に近い列堂を描いてジャンルの刷新を行っており、剣豪小説好きは驚きが大きいのではないか。
本書の第一話「東叡大王」では、捕縛された極楽組の頭領・極大師が江戸に護送され、水戸家の蔵屋敷に造られた座敷牢に入れられる。極大師は、尋問に来た光國に「全国の反幕の士、賊、侠客の、顔、名、出自、生業」などが頭に入っているというが、それが真実なのか、真実であるとしても何らかの謀略が隠されているのか判然としないだけに、二人のやり取りには裏を読み合う静かながら息詰まるサスペンスがある。極大師は朝廷を巻き込んだ謀略の存在を臭わせるが、これは後水尾天皇(退位して院になった後も)が朝廷、公家への統制を強める幕府に抗った史実をベースにしている。このモチーフは、五味康祐『柳生武芸帳』(未完)、隆慶一郎『花と火の帝』(未完)などでも用いられているので、興味がある方は本書と読み比べてみて欲しい。
続く「八王子千人同心」では、豊臣秀吉に関東へ国替えさせられた徳川家康が、召し抱えていた甲斐武田家の遺臣を八王子城下の警固に当らせたことに始まり、その後、やはり武田家に仕えていた大久保長安の発案で増員し成立した八王子千人同心の千人頭・石坂正俊が、江戸城内で道に迷い違う部屋に入ったため十人の千人頭全員が「躑躅の間」詰めから「御納戸前廊下」詰めへ降格させられた史実が描かれる。だが作中で指摘されているように、千人頭が道に迷うのも、その後の処分も不可解なのだ。著者は、正俊の事件の裏を独自に解釈して歴史を読み替え、家康の側近になるも公金横領で処分された長安とその一族、禁教令による弾圧が続く切支丹ら、幕府に叛旗を翻す可能性がある集団と、汚い手を使ってでも反幕組織を抑え込もうとする幕府との暗闘を浮かび上がらせていく。
再び江戸を焼き尽くしインヘルノに変えようとする敵に対し、光國は困窮する浪人を集めて幕府転覆を目論んだ由井正雪の名を冠した絵図を参考に、敵の動きを推察しようとする。江戸は何度も火災の被害に遭っているだけに、敵の付け火が成功するのか、失敗するのかが史実を知っていても読めず、終盤に向けた緊迫感は圧倒的である。
本書では、了助の剣の師であり、精神の師でもある義仙が、敵と戦い凄まじいアクションを見せ、剣を捨て禅僧になった悲しい事実も明らかになる。禁教令で棄教を拒む多くの切支丹が殺されたが、処刑に倦み病と称して職を辞す者が続出した。そこで幕府は切支丹を処分する「禁教の士」の派遣を決め、義仙もその一人に選ばれ死体の山を築いた。自分を殺す者の幸いを祈る切支丹を処刑した義仙は、罪悪感を植付けられ剣の修行を名目にして乱暴狼藉に明け暮れた。それでも義仙は、人を殺すのではなく人を活かすための「活人剣」を習得することで救われたいと考え、剣の修行だけはやめなかったという。
武士として生まれ上からの命令は絶対と信じていた義仙は、多くの切支丹を殺したことで、悪夢に苦しめられるようになるが、剣の修行を続けて悟りを得て、武士としての自分を消し一個の人間になれた。実父を殺され敬愛している犯人を殺したいという地獄を見た了助は、義仙の告白を聞き、どのようにすれば自身の地獄が払えるかを考えるようになる。光國と了助が追う極楽組とその協力者も、政争に敗れたり、一方的な、あるいは理不尽な処罰で平穏な生活を奪われ地獄に叩き落された経験を持っているが、地獄を抜け出すのではなく、無関係な人を巻き込んででも地獄を広げようとしている。江戸を地獄にするという執念が結実するクライマックスは凄まじく、了助たちの戦いも苛酷になっている。この戦いは、地獄の底まで落ちる道と地獄を克服しようとあがく道では、どちらを選ぶ方が幸福になれるのかを問い掛けているのである。
著者が史実を掘り下げ、壮大な陰謀の原因を敗者の怨念にしたのは、“問題の先送りやミスの放置が数年後、数十年後に思わぬ形で災厄に繋がる状況には普遍性がある”と示すためだったように思える。常に自分の力では修正できない歴史の流れに翻弄される小さな個人は、生まれた時代、家庭環境、友人関係、導いてくれる先生や上司の違いによって人生が左右されるのも珍しくない。あまりに長く不遇が続くと、その原因を悪い時代、悪い家庭、悪い友人、悪い先生などに求めダークサイドに落ちる危険があるが、地獄を見ながら踏みとどまり逆に地獄を払おうとする了助は、ついに一つの結論を得る。光國、罔両子、義仙らに導かれながら極楽組と長く戦い、多くの死者を目にすることで成長した了助がたどり着いた境地は、主要先進国の中で若者の自殺死亡率がトップの現代日本で生活するすべての人へ向けた強いメッセージになっているのである。
本書のラストを読むと、人生は長い旅なので明るい時も暗い時もあるが、諦めずに生き続けなければ楽しいことが経験できないと気付かせてくれるはずだ。
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『皇后は闘うことにした』林真理子・著
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