書評

最大の観光名所で起きた雑踏事故の深層

文: 加藤 隆則

『上海36人圧死事件はなぜ起きたのか』 (加藤隆則 著)

 上海の観光名所・外灘(バンド)で2014年12月31日、カウントダウンのイベントに参加しようと集まった31万人の列が乱れ、衝突した人波にのまれて若者36人が圧死した。本書はこの事件を通じ、中国社会が抱える問題を幅広く掘り下げ、中国への理解を深めようと試みた希有な中国論である。私は1993年から10年間、東京で社会部記者を経験し、2005年から10年間、上海、北京で中国報道にかかわった。そして2015年6月をもって新聞社を去った。私にとって本書は三つの記念すべき意味を含んでいる。

 第一は、社会部記者として培った現場取材の視点を生かし、中国メディアがタブー視した事件の背景に斬り込んだ点である。上海市当局は犠牲者の名簿を公表しながら、出身地を伏せ、都市と地方の格差が生む対立感情をあおる報道を禁じた。本書では出身地や職業を含めた詳細な名簿を作成し、犠牲者の8割が上海戸籍のない地方出身者=外地人であることを明らかにした。教育や就職、福利厚生で上海人と対等の待遇を受けられず、不安定で困難な生活を強いられている外地人が、大都会での帰属意識を求め、誰でも無料で参加できるカウントダウンに集まった。同事件は、「平等」や「公平」を掲げる社会主義の理想とはかけ離れ、階層化が進行する中国社会を浮き彫りにした。

 それまで3年間、外灘の一般開放された空間で行われてきたカウントダウンイベントが、今回は「安全確保が困難」として中止される一方、近くの仕切られた会場で2000人規模に縮小して行われることになっていたことを、多くの人々は知らなかった。「中止」の事前広報は目立たず、会場を変更した恒例行事の「継続」が強調され、あたかも例年通りのイベントが開かれると誤解を生んだ。そこには観光振興を重視する上海市当局の意図的な情報操作に加え、波及効果の高い携帯電話による私的ネットワークの落とし穴があった。また、イベントが中止された理由を探ってゆけば、習近平政権が進める大規模な腐敗摘発運動に突き当たることも、同書では指摘した。

 第二は、私が中国で最も長く滞在し、深く親しんだ上海の町を舞台に、中国を透視する試みに挑むことができた点である。上海は、半植民地時代の屈辱の歴史と改革開放の成功による経済的繁栄をともに体現する。「中華民族が列強の侵略を打倒し偉大な復興を遂げる」とする習近平政権の政治スローガン「中国の夢」を分析する上で、最もふさわしい場所の一つが上海である。地下組織であった中国共産党が1921年、第1回全国代表大会を開いて産声を上げたのも、中国官憲の目が及びにくい上海のフランス租界だった。

 また戦時中、10万人の日本人が暮らした上海は、現在も日本人、日本企業が中国で最も多く集中している都市であり、上海人の犠牲者7人のうち2人が日系企業勤務の経験を持っていたことも本書では明らかにした。日本では中国からの邦人撤退が誇張して伝えられているが、上海日本商工クラブの会員企業数は2015年1月で2460社と世界最大の規模を有し、13年末の2412社、12年末の2390社から微増を続けている。上海の存在を抜きに日中関係を考えることはできず、上海で起きる様々な出来事は、日本人にとって他人事ではない。

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上海36人圧死事件はなぜ起きたのか
加藤隆則・著

定価:本体1,500円+税 発売日:2015年06月27日

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