私がクンデラの『存在の耐えられない軽さ』や『冗談』を褒めた。自分自身を突き放して描く、クンデラの作風に魅力を感じると感想を述べたら、米原さんは本気で怒った。
「クンデラにはほんものの感動がない。計算され尽くしたユーモアなんかに意味はない」
米原さんは、吐き捨てるように言った。
「しかし、クンデラはドストエフスキーよりもトルストイの方が好きだと言っていますよ。ドストエフスキーの過剰な神についての表現、信仰を装った感動のいかがわしさを見抜いている点で、クンデラの目は米原さんと共通するものがあるように思う」
と私は率直に意見を伝えた。その後、米原さんとこんなやりとりがあった。
「そうね。確かにあなたが言うとおり私とクンデラにも共通したところがあるかもしれない。でも、私はクンデラは大嫌い。あいつは共産党の文学官僚だったのよ。他の文学者を弾圧する仕事をしていた。それでいながら、悲劇の亡命者のような顔をしているところが気に入らないわ」
「それはテキストの外部の事柄じゃないですか。作品はテキストだけで評価しなくてはならないと米原さんはいつも言っているじゃないですか」
「いつもはそう言っていても、例外があるの。とにかくクンデラは大嫌い。クンデラが作り出す感動はにせものよ。にせものは嫌い。だいたい文学官僚なんかにまともな作品が書けるはずがない」
「僕だって官僚出身ですよ」
「あなたは、間違えて官僚になったのよ。本来は作家になる人なの」
クンデラのように才能があっても、かつて官僚として、知識人を弾圧した経緯がありながら、それに頬被りしているような生き方に対して、米原さんは激しく反発していた。裏返すと、米原さんは人間を信じているから、組織の論理で人間性にもとる行為をする人を憎んだのだと思う。
米原さんの死後十年を記念して、ユニークなアンソロジーを上梓(じょうし)することにした。米原さんは健啖家だった。それだから、本格的なロシア料理のメニューとのアナロジー(類比)で読者に米原さんの作品を提供することにする。ただし、帝政ロシアでも現在のロシアでもなく、ソ連時代の正統なロシア料理のメニューを提供する。なぜなら、このようなソ連型のロシア料理を米原さんが楽しんでいたからだ。