ロシア料理は前菜が勝負だ。前菜(ザクースカ)には、キャビアやカニをはじめとする冷たい前菜(ハロードヌィエ・ザクースキ)とキノコのグラタン、ペリメニ(水餃子)などの温かい前菜(ガリャーチエ・ザクースキ)がある。さらにウォトカと黒パンは、前菜に欠かせない。まず冷たい前菜をテーブルいっぱいに並べるのが、ロシア式のおもてなしだ。もっとも日本人の胃袋だと、ロシア人のペースで冷たい前菜を食べると、温かい前菜やメインがまったくお腹に入らなくなる。それだから、予約するときに冷たい前菜の量を半分から三分の二にするのが、日本人相手のただしいおもてなしの作法だ。冷たい前菜として紹介したい米原さんの作品も候補のうち半分に絞り込んだ。
作品自体を読んでいただければよいので、内容に屋上屋を架すような説明は、読者から楽しみを奪ってしまうことになるため極力避けたい。ただし、選択の基準については、シェフの視座を述べておくことにする。
冷たい前菜は、米原さんの基本的な物の見方、考え方を示唆(しさ)する作品を選んでいる。「三つのお願い」では、言葉という記号からイメージする内容は千差万別だという基本認識を紹介し、「キャビアをめぐる虚実」は、人間の狡さを見抜く知恵の必要性をユーモラスに描き、「氏か育ちか」は人間にとっては環境が重要であるという見方を示している。「不眠症に効く最良最強の薬」では、勤勉さの重要性をちょっとひねった表現で説き、「夏休み、子どもや犬猫の溢れるエネルギーを家事に生かそう」では、現実から遊離した夢想をあえて行うことが創造の父であることを伝えている。
次はウォトカと黒パンだ。ちなみに米原さんは全くアルコールを受け付けない。私は外交官時代、ウォトカをよく飲んだ。それだから、日本では簡単に入手できないが、小麦を材料とする黄色いラベルの「プシェニチュナヤ(ロシア語で“穀物の”を意味する)」というウォトカをイメージして作品を選んだ。黒パンはモスクワ風の洗練されたライ麦パンで、無塩バターをたっぷり添える。「グルジアの居酒屋」は、ロシア人やグルジア人、ウクライナ人など旧ソ連の諸民族にとって酒がどれくらい重要であるかということを、「日の丸よりも日の丸弁当なのだ」は、黒パンがロシア人のアイデンティティの一部であることをわかりやすく描いている。
温かい前菜には、冷たい前菜をつまみにウォトカを大量に飲んだ後、ほっと一息つくという意味がある。そのイメージで作品を選んだ。「夢を描いて駆け抜けた祖父と父」は、米原さんに強い影響を与えたお父さんとそのルーツについての、「夕食は敵にやれ!」と「プラハからの帰国子女」は、人格形成に無視できない影響を与えたプラハ時代の生活についての貴重な証言だ。