書評

二二世紀の読書家が……

文: 大井 浩一 (毎日新聞学芸部記者)

『世界は村上春樹をどう読むか』 (柴田元幸・沼野充義・藤井省三・四方田犬彦 編/国際交流基金 企画)

 そうした空気の中で、さまざまな母言語を持つ人々がほとんど日本語のみで村上文学について語るという、まさに稀有の光景が繰り広げられたわけだが、圧巻は沼野充義氏がコーディネートしたある場面だった。それは各国・地域の翻訳本の表紙をスライドで紹介していくものだったが、それにかこつけて十数名の海外参加者(そのほとんどが翻訳者)を壇上に勢揃いさせてしまったんである。つまり、それぞれ見た目にも明らかに異なる出自を感じさせる風貌の人々が並んで腰かけ、こもごもに流暢な(あるいはたどたどしい)日本語で「ハルキ」への思いを述べる姿こそが、なによりも雄弁に村上文学の世界性を物語っていたのだ。

 一連のシンポジウムを正確かつ詳細に記録した本『世界は村上春樹をどう読むか』で沼野氏が書いているように、「一つの『村上文学』というものは存在しない。翻訳される言語の数だけ、翻訳者の数だけ、村上文学はある」。村上作品が訳された三十数言語のうち今回の参加者はその半分ほどにすぎなかったけれど、それでも「世界性」を実感させる発言はあまりに多岐多様に及んでいて、短い引用ではうまく紹介できそうにない。それは、やはりコーディネーターの一人だった柴田元幸氏がいうように「騒々しい議会」のようでもあったし、逆にいえば、「村上文学」にとっては会場の隅で聴衆がつぶやく、記録には残らない「ひとりごと」のほうに意味があったともいえなくはない。

 さらにいうなら、海外からの参加者はもとより、コーディネートに当たった四人の日本人学者(柴田氏、沼野氏と藤井省三氏、四方田犬彦氏)の間でさえ、この催しに対する関心の持ちかたは必ずしも一致していなかった。それでよかったのだし、だからよかったんじゃないかとも思う。なにか分かりやすい結論やまとまった成果を出すのが目的ではなかったし、むしろ開催したこと自体がなにより大きな意味をもっていた(というのは「国際交流」事業の決まり文句だが、この場合はほんとうに)。

 ともあれ、その記録がこうして本の形で残るのは喜ばしい。考えてみるのだが、何十年もたって、シンポジウム参加者がみないなくなったあと、例えば二二世紀の読書家がふとした機会にこの本を手にしたとする。そしたら彼または彼女はどう感じるだろうか。ひいき目もあるけれど、きっと面白がるに違いないと思う。そして、そのとき彼または彼女が「まるで○○みたい」と連想するとしたら、それはどんな国(言語)の、どんな作家なのだろうか。

世界は村上春樹をどう読むか
柴田元幸、沼野充義、藤井省三、四方田犬彦・編/国際交流基金・企画

定価:本体657円+税 発売日:2009年06月10日

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