書評

「純粋な見方」では見えないもの

文: 中野 京子 (作家・ドイツ文学)

『恐怖と愛の映画102』 (中野京子 著)

「絵画は自分の感覚だけで味わえばいい」という風潮に違和感を覚え、「歴史的また文化史的観点から見直せば、もっとずっと楽しくなる」と知ってほしくて書いたのが、美術エッセイ『怖い絵』シリーズでした。

   一枚の絵は、時代や文化の強烈な影響のもと、注文主の嗜好や画家の力量に従って生まれています。日本の幽霊に足がないのと同じく、聖母マリアの衣装の色は決まっているわけで、それを知らずして「色彩がきれい」と言ってもはじまらない。でも若い人たちの多くは、なぜか知識をある種の押し付けと見なし、自分の「純粋な」見方を妨げるもの、と考えているのらしい。個性的な人材育成、という学校教育の賜物(!?)でしょうか?

   芸術作品に対してこうだから、敷居が低いと思われている映画だとなおさらのこと。

  ネット上には映画情報が氾濫し、誰も彼も競って作品を「評」し、点数を付けているのは驚くばかり。それ自体はもちろん構わないのですが、不当に低い評価のコメントには共通項があるのに気づきます。つまり無知の棚上げ。「最初から最後まで意味がわからなかった。見る価値なし」と、堂々たるものです。自らに非があるかもしれない、とは想像もしていない。

  背景など全く知らずとも――たぶん感覚で――「わかる」のが当然、との認識なので、わからなければ相手が悪いという結論になってしまうのでしょう。わからないことを調べるのは億劫で嫌なのです。せめてプロの映画評論家の書いたものを読んで補えばと思いますが、それこそもっとも嫌がる。なぜなら「純粋な見方」の邪魔になると信じているから……。

  これに関しては若者ばかりを責められません。かつての淀長さんのように、映画が好きで好きでたまらない、自分が感じた面白さを是非とも周りに伝染させたい、権威主義的な専門用語は使わず語り口の妙で作品の良さを伝えたい、というカリスマ的伝道者がいなくなったからです。 

恐怖と愛の映画102
中野 京子・著

定価:650円(税込) 発売日:2009年07月10日

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