老いのさみしさ、悲しさの中で自身を見、世間を見た。自分に次ぐナンバー2に浮上し、米中外交で国際的な名声を博した周恩来を意識し、嫉妬し、恐怖を感じた。
そして同じ年の五月、周恩来が初期の膀胱癌であることを医師団から知らされると、彼らに不可解な指示を出した。
周恩来本人にも家族にも告知するな、手術はもちろん、これ以上の検査もするなと命じたのである。
繰り返しになるが、毛沢東は脳に支障のない状況でそう判断した。初期の癌を放置したらどうなるかを理解し、その上で命令を出した。その点を、押さえておく必要があるだろう。
一方、周恩来は病気を知らされないまま、四か月後の九月に日中国交正常化を実現させた。
そして翌七三年の二月、小用を足したら血尿で便器が真っ赤に染まるのである。周恩来はようやく、自身の病状を知ることになる。
やがて、尿道に血の塊(かたまり)が詰まり、トイレに行く度に飛び跳ねて塊を動かさないといけないような状況になった。
そうした中で激務をこなしたのだから、やはり尋常の精神力ではない。責任感も並はずれて強かったのだろう。
にもかかわらず、毛沢東による攻撃は、この時期からいよいよ本格化する。七三年暮れには、共産党政治局拡大会議を開いて、周恩来を吊るし上げた。
さらに、儒教の影響を強く受けた周恩来をあてこすった批林批孔運動を始めた。
周恩来は体調の悪化に苦しみ、毛沢東の敵意に悩みながら、しかし反撃しようとしなかった。むしろ毛沢東への忠誠心を示す、釈明の手紙を必死になって書いた。
毛沢東に対する恐怖が、死への恐怖を上回っていたに違いない。なんという残酷な光景だろう。
この後、周恩来は末期癌患者として、最後の日々を病院のベッドで過ごすことになる。
私もいま、入院先のベッドに横たわり、周恩来と同じように、病室の天井をながめている。
時々ふいに、死に対する動物的な恐怖感が、身体の底の方から吹き上がってくる。
しかし私には、周恩来が毛沢東に対して抱いたような類(たぐい)の恐怖感はない。
だからだろうか、この期(ご)に及んでも、周恩来という人を理解しきれていないような気がする。
ああ、まだわからないなと、心の中でつぶやいたりもする。
そして同時に、不可解でわからないから面白いのだろうな、などと思ったりするのである。