- 2016.12.04
- インタビュー・対談
騒いで動くのが、子どもの仕事――国民的絵本作家から全ての親子へ、未来への希望のメッセージ(中)
「本の話」編集部
『未来のだるまちゃんへ』 (かこさとし 著)
ジャンル :
#随筆・エッセイ
セツルメントで子どもたちと出会ったことが、「絵本作家」誕生につながっていく。加古さんが大勢の子どもたちと接して分かったことは、子どもを観察することはとても大切だということ。そして、大人がちょっとしたきっかけを作ってあげることで、子どもは大きく伸びる可能性を秘めている。(札付きのワル「ケンちゃん」については、ぜひ本書でご一読を!)加古さん自身は、どんな家庭で育ったのだろうか?
――加古さんのお母さまはどんな方だったのでしょうか?
加古 あまり親の悪口を言うのもなんだけれども、母は明治28年生まれですから、そういう時代だったということもあって、どうも小学校もろくに行ってないらしく、母がくれる手紙は全部ひらがなでね。漢字が書けない無学な母でした。兄弟が多い育ちのせいで、若いときにだいぶ苦労したらしい。僕が生まれたのは自然豊かな越前、福井県の武生(たけふ、現・越前市)というところでした。金沢や京都には及ばないけれども、非常にしっとりとした風雅で古風な事が大事にされる場所。ですから、母は芸事に精進して、琴、琵琶、謡曲をやっていた。それをやり始めると、家事はほったらかし(笑)。僕がまだ小さくてワァワァ騒いでいたりしたら、だいぶ怒られてね。昔のことだから、おやつなんか与えてもらえなかった。だから、2、3匹のにぼしがおやつ代わり……でもかえってそれが体に良かったかもしれない(笑)。そういう時代だった。1度だけ、小学校1年生のときにジフテリアにかかってね。昔のことだから入院したんだけれども、入院といっても普通の民家みたいなところの2階屋の1部屋に寝かされていた。症状が軽かったせいか、すぐ治っちゃったのに、1年生の受け持ちの女の先生がわざわざお見舞いに来てくれて、窓から足をぶらんぶらんさせていたのを見つかっちゃったんだけど(笑)。そのとき生まれて初めて、おふくろにカステラを買ってもらって食べたんです。病気になると、こんなイイことがあるんだねって思いましたね(笑)。それ以外は、おふくろは非常に厳しかったですね。自分が無学のせいか、「勉強せえ勉強せえ」といつも言っていて。小学校のときは成績がまぁまぁで問題なかったんだけれども、中学に入ってからは、ときどき赤点なんて取るときもあって、そしたらもう、ものすごく怒られた。父兄会なんて行って帰ってきた日には、1時間くらいお説教くらったこともあった(笑)。……まぁ、そういう母親だったんです。
僕は小さい頃から親には反抗しない主義で、親には何を言われてもだまっていました。父親がまた、真面目でこまめな人間でね。安月給なもんだから、日曜の度に家の中の棚を作ったり、色んな細工ものを自分で作るんです。兄貴はそういうのが嫌いな性質だと僕はにらんでいたんだけど、僕はそういうのが割と好きだから、親父の後にくっついて、「何かほしがっているな」って予感したら、すぐにノコギリやノミを父親に差し出したり、体が小さいから床下にもぐりこんで色々手伝っていました。それが後年、化学会社に就職して工場で工員さん達と一緒に仕事をしたときに、非常に役に立ちましたね。5~6人の工員さんたちと3交代で、僕も一緒に交じって夜勤したりね。研究所の他の連中は夜勤よりも実験室で研究している方が良かったようでしたが、僕はそういうのが性に合っていたんだなぁ。現場の工員さんとも仲良くできた。
――工員さんたちに信頼されていらしたんですね。会社の上司にはハッキリとおっしゃるけど、部下には慕われた、と本書で語られています。なかなか言えないようなことを上司に言っていたようですね(笑)。
加古 上の人に、たてつくつもりも別になかったですけど。私の方が、若い時は短気だったんでしょうね……ふっふっふ。だからカチンときたら、「あなたはちょっと経営者としておかしい」なんて、ずけずけ言って(笑)。「いくらでも辞表を出します」って何度も言っていました(笑)。
――会社勤めと絵本作家の二足のわらじを履いていらした、そのことは絵本作家という仕事にとって良かったですか?
加古 会社に勤めたことは、これはもう絵本をつくる上でプラスになったと思います。まぁ、会社を通じて社会の裏表を勉強しようと思っていましたから。首を切られない限り勤めて続けようと、一生懸命、会社の仕事も人一倍こなしていました。絵本を描くようになったのは、セツルの活動の中で偶然のきっかけがあったからなんですけど、休日にセツルのことをやっているというのは一切会社にはだまっていました。別に悪いことをしているつもりはなかったですけれども、時代が時代でね。セツルにいろんな若い方が来ても、あまり長続きしなかったのは、結局、地域の人たちが我々を「アカ」だと言うんですよね。そういう目で見られる時代でしたから。タダで自分たちのことを助けてくれるなんていうのは何か下心があるはずだ、政治的な意図を持っているに違いない、と。アカ以外考えられないからアカだと言ってたんでしょうね。だからもう大変だったですよ、最初は。だけどそんなのいちいち、「アカではございません」なんて言い訳しながら、こちらは子どもさんの相手をするわけにはいかないですから。子どもたちにも最初は悪口をさかんに言われたし、替え歌まで歌われた。でも、一緒になって子どもと共に(セツルに対しての)悪口の歌を歌っているうちに、面白くなっちゃった(笑)。替え歌が実によく出来ていたんです(笑)。
子どもを観察すると、大人と同じように子どもも人間の感覚を持っていて、幼いながらもちゃんと生きているということが分かります。だから、3歳を過ぎたらもう、人間だとして接する。まだ経験も少なく世の中のことを知らないけれども、生きようとしている力、それだけは大人とは違う。その勢いがあるから、思いっきり駆け回るわけですねぇ。かけずりまわってぎゃあぎゃあわぁわぁ、どたばた……それはもう子どもの商売なんです。だから子どものことを「うるさい!」なんて言う大人が最近は多いそうですけれども、そりゃあ間違いだよと思います。子どもが思いっきり騒いで動くことがなくなったら、逆に問題ですね。今の時代はあんまりわぁわぁ公園ででも騒いでいると、怒られるんだからねぇ。そりゃあ、ちょっとおかしいですよ。子どもに「生きるな」って言っているみたいなもんでね。僕に言わせると、そうやって自分の中の伸びていく筋肉とか、色んな能力を発散して、充分に使いこなして、くたびれたらバタンキューと寝る、というのが、子どもが育っていく過程なんですね。その充分使いこなしてくたびれるということがなかったら、例えば夜になっても目がランランとしちゃって、うとうとしているうちに朝になっちゃって、ごはんもあんまり食べられないなんてことになって、そりゃあ「おたく族」になるのは当然だろうと思うんです(笑)。
――昔と今では子どもの遊び方が変わりましたね。今では、ネットを見てゲームしている子が増えている。遊び方が昔と変わってきたことについては、どのように思われますか?
加古 いやだから、そりゃ、世の中の変化もありますよね。道路は車が走って危ないし、人さらいもいるかもしれないから、外へなんか遊びになかなか出せないという状況がある。だから、家の中で子どもを遊ばせている分にはいいや、ということかもしれません。だけど、経済至上主義という今の世の中が、子どもの世界にも影響する時代になってきた結果のしわよせはどうなるんでしょうか? 僕には「そんなのは間違いも甚だしい」と思うんだけれども、そこが矯正されなければ、時代が流れるままにいくでしょうねぇ。だからそれはもう、時代をつくっている親、大人たちの責任であって、子どもの責任ではないと思っていますけどね。いつか、そのつけが負債となって来るかもしれません。理想的な子育ての時代っていうのはなかなか来ないのかもしれませんけれども、良き未来を目指さないといかん、ですよね。僕はもう年寄っているから、とてもそこまでの力はないんだけれども。
――そういった世の中で、加古さんがお描きになる絵本は、ある意味、希望だと思うんです。子どもたちが読んで吸収する力ってすごいので、いろいろ彼らなりに感じて考えて、成長していく。小さいときに絵本を読むことの素晴らしさ、大事さを受け継いでいきたいなというのは読者の1人として思います。
加古 その子どもさんですけどね、自分の判断で賢くなろうとか夢を実現しようとか、自分の道を歩んでいけばいいと思います。でも、戦争中の状況のように、大人が強制的に「こうしなさい」とがたがた言う必要はないんです。一見それが優れた道であってもね。優れた道なんていうのは、孔子さんを始め、今までたくさんの偉い人が示してくださったんだから。自分がそれを採用するかどうか、それを実践するかどうかが、はっきりいうと、各自の子ども自身の賢さによるわけです。だから、賢い子になりなさいよ、なってくれ、ということですよね。
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