東京には昭和三十年代まで各所に花街があった。正確には「かがい」と読むが、一般には「はなまち」と呼ばれる。芸者(芸妓)がいて料亭で接客する。芸者置屋、料理屋、待合茶屋の三業が集まっているので三業地ともいう。あるいは花柳界とも。いわゆる芸者遊びが出来るところである。といっても「色街」や「遊廓」とは違う。娼妓が身体を売るのに対し、芸者はあくまでも踊りや三味線などの芸を売る。従って花街は政治家や実業家の社交場として使われた。
東京には江戸時代から続く柳橋(やなぎばし)や浅草、深川をはじめ、明治になって開けた新橋や赤坂、神楽坂(かぐらざか)など、随所に花街があった。明治から昭和にかけて「芸者の時代」「花街の時代」が確かにあった。
その花街が昭和四十年代になると急速に消えてゆく。芸者の数は激減する。かつて伝統ある花街として知られた柳橋にはいまではもう芸者は一人もいない。現在でも花街として残っているのは新橋、浅草、向島くらいだろうか。花街の衰退は、遊客の好みが変わり、クラブやバー、あるいはキャバクラにとってかわられたのが大きな原因だろう。
本書は、そうした消えゆく花街のひとつ、新宿区の荒木町を舞台にしている。地下鉄丸ノ内線の四谷三丁目駅の近く。四谷と新宿を結ぶ新宿通りの北に位置する。
佐々木譲はつねに事件が起こる場所を重視する。『新宿のありふれた夜』(一九八四)は、一九八〇年代はじめ、アジアの人間が増え始めた歌舞伎町を舞台にした。次第にエスニック化してゆく新宿を描いた先駆的作品といっていいだろう。自身、「アジアの活気と混沌を体現する街」としての新しい新宿の姿を「まだ多くの日本人が気づかぬうちに感じ取り、書きとめることができた」と自負しているのもうなずける。
本書で登場した警部補、水戸部裕が活躍する第二弾『代官山コールドケース』(二〇一三)は、一九九〇年代におしゃれな町として若い女性に人気が出た代官山を舞台にしているし、本書と同じ年に出版された『回廊封鎖』(二〇一二)では六本木ヒルズがモデルになっている。
佐々木譲は犯罪と場所の関わりに敏感である。刑事の言葉でいえば「土地勘」が大事になる。ミステリ小説というものが、近代社会になって都市が成熟してから生まれた都市小説であることを思えば、佐々木譲の場所への関心、土地への着目はまっとうである。
二〇一〇年に法律が改正され、殺人事件の時効が廃止になった。それを受け、警視庁の警部補、水戸部裕は上司から、十五年前の平成七年(一九九五)に荒木町で起きた殺人事件の再捜査を命じられる。
杉原光子という、荒木町でアパートを経営する七十歳の女性が殺された事件。犯人は見つからず、未解決のままになっていた。この女性は、若い頃、小鈴という名の芸者だった。のち、東京オリンピックがあった昭和三十九年(一九六四)にパトロンがついて小さいながらも芸者置屋を持った。当時はまだ、荒木町には花街の名残りがあった。
地層捜査
発売日:2014年10月10日
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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