「山の神」という言葉は、二〇〇七年に誕生した。
この年、順天堂大学の今井正人が小田原中継所で準備していると、同じ五区を走る日本体育大学の北村聡が、
「順天堂大には『山の神』がいますからね」
と記者に話していたのだ。
今井は二年、三年と五区を走り、それぞれ区間新記録を出していた。二年のときは十一人抜き、三年では五人抜きでトップに立っている。たしかに山には絶対の自信を持っていた。北村は、
「なるべく今井さんと一緒にいく形で走りたいです」
とも語っていたが、実際、ほぼ同時でのスタートとなった。
「早めに勝負をつけよう」と考えた今井は、前半に少しだけ無理をして入り、北村を振り切って前回マークした自分の記録を更新して順天堂大を首位へと導いた。走り終わって日本テレビの中継を見てみると、
「山の神、ここに降臨!」
と叫んでいるではないか。
こうして「山の神」が誕生したのである。
今井は福島県の原町高校出身で、順天堂大に入学すると、一年生から主要区間の二区を任された。その時点から並々ならぬ実力があったことの証明だ。
二年生から適性を見込まれて五区を走るようになったが、この年までは距離が20・9キロだった。今井は区間賞の走りで順位を押し上げたが、今井の人生を一変させたのは二〇〇六年に五区の距離が23・4キロに延長されたことだ。いままでよりも10分ほど走る時間が長くなり、選手にとってそれだけ大きな差がつくようになった。箱根全十区間のなかでもっとも重要な区間に“昇格”したのである。
今井は三年生のときに、区間二位の選手に1分の大差をつけて区間賞を獲得、順天堂大を往路優勝に導いた。復路の八区でトラブルがあり、総合優勝はならなかったものの、今井の活躍は鮮烈な印象を残した。
そして最後の箱根では、北村を振り切って、1時間18分05秒と自分の記録を再び更新した。区間二位の選手には2分34秒もの大差をつけ、その圧倒的な走りで全国の箱根ファンの気持ちをわしづかみにした。ひとりだけ、異次元の走りを見せたからだ。
テレビだけでなく、翌日にはスポーツ新聞で「山の神」という見出しが躍り、ここから今井はそのニックネームとともに競技人生を歩むことになる。今井のこの走りから、箱根の歴史もまた変わった。山上りのスターが全国区の人気を誇るようになったのだ。
数日後、雑誌のインタビューで将来の目標を質問されたので、気負わず、自然に答えた。
「将来は、マラソンに挑戦したいと思っています」
就職先はトヨタ自動車九州を選んだ。福島で生まれ、千葉にある順天堂大に通っていたから、九州は縁がある土地ではない。しかし、チームの指導に当たっているのがバルセロナ・オリンピックのマラソン銀メダリスト、森下広一である。
森下は旭化成で鍛えられ、日本のマラソンランナーとしては、世界の舞台で最後のきらめきを放った選手だった。もちろん、指導者としても国際舞台で通用する日本人ランナーを育てるのが森下の夢であり、ゴールだ。その志が今井と一致した。
しかし、マラソンではいばらの道が続いた。
二〇〇七年に就職し、翌年の八月には北海道マラソンでデビュー。2時間18分01秒で十位に入った。以後、
二〇一〇年十二月 福岡国際マラソン 2時間13分23秒
二〇一一年三月 びわ湖毎日マラソン 2時間10分41秒
という記録がつづく。ある意味、ここまでは順調だったかもしれない。ひとつの目標である2時間10分切りは目前だったからだ。そこから壁にぶつかる。
二〇一一年十二月 福岡国際マラソン 2時間10分32秒
二〇一二年三月 びわ湖毎日マラソン 2時間17分50秒
二〇一三年二月 東京マラソン2013 2時間10分29秒
二〇一三年十一月 ニューヨークシティ・マラソン 2時間10分45秒
不思議なものだ。標高差が八百メートル以上もあり、壁のような道に突っ込んでいく箱根の五区よりも、マラソンの方がずっと複雑で難しい。世界のトップランナーが2時間5分以内で走るようになった時代、今井は2時間10分をなかなか切れないままでいた。「『山の神』が山上りで結果が残せたのは、スピードが関係のない区間だったからだ」、「五区はマラソンに直結しないのではないか」といった力不足を指摘する声もあった。
ようやく2時間10分の壁を突破したのは、マラソンに出始めてから八年が過ぎようとしていた。
二〇一四年二月 別府大分毎日マラソン 2時間9分30秒
マラソンランナー、今井が納得のいく結果が残せたのは二〇一五年二月に行われた東京マラソン2015である。
2時間7分39秒という自己ベスト。日本勢最高の七位でフィニッシュし、今井は世界陸上の代表に選ばれた。
振り返ってみれば、マラソンで国の代表に選ばれるまで、八年の歳月を必要とした。諦めなかったことで、ついに日の丸をつける機会につながったのだ。しかし――。
二〇一五年八月に北京で開幕する世界陸上を前に、今井は欠場を発表せざるを得なかった。
晴れ舞台を前に今井は北海道で合宿を行っていたが、七月三十日に発熱と頭痛を訴え、病院で診察を受けた。
診断は髄膜炎(ずいまくえん)。約二週間の治療が必要とされた。レース前のこの時期に療養を余儀なくされるということは、マラソンを走るのは無理ということだった。今井は、
「世界の舞台で戦うために順調に練習を重ねていただけに、悔しい思いでいっぱいです。早く体調を回復させ、再スタートを切りたい」
と所属先のトヨタ自動車九州を通じて談話を残した。
初代・山の神の挑戦は、これからも続いていく。山の神ではなく、「マラソンランナー今井正人」と呼ばれる日は、そう遠くない。
柏原竜二は、中学生まで箱根駅伝をテレビできちんと見たことがなかった。人が走るのを見てもまったく興味が湧かず、「自分がどれだけ速くなれるか」ということだけに気持ちが向いていた。
小学校では六年間、ずっと持久走では一番。野球が大好きな一家で育ったからソフトボールをやっていた。でも、エラーをしてみんなに迷惑をかけるのが嫌で、中学からは個人種目をやろうと思っていた。軽い気持ちで陸上部に入ると、中学三年生で全国大会に出場した。素質があったのだ。中三の春までは特に部活はしないで普通の高校生になろうと思っていたが、こうなると競技を続けようという気持ちになった。幸い、自宅の近くにあるいわき総合高校には、順天堂大学で競技を続けた指導者がいた。
高校生になったら、貧血に悩まされた。クラッとしてしまうので、練習を積むことさえままならない。治療、食事療法の日々。箱根駅伝をはじめて見たのは、体の治療にあたっていた高校二年生のときだ。ちょうど今井が五区の山上りで1時間18分05秒の区間新、順天堂大を優勝に導いて「山の神」と呼ばれた大会だ。福島では一日中、今井のニュースをやっているし、地元の「福島民報」もトップで今井の活躍を伝えた。もともと中学生から一般の人までが市町村単位で参加する「ふくしま駅伝」で県全体が盛り上がる土地だから、駅伝関係の報道が多かったのだ。
それでも高校三年生の春まで、柏原は大学で競技を続けるつもりはなく、就職しようと思っていた。それほどの実績を残していなかったのだ。ようやくうれしい結果が出たのは七月の福島県高校総体だった。5000メートルで14分30秒台をマークして、10000メートルでは優勝した。
高校生にとって5000メートルで14分台の記録を出すのは「パスポート」を手にするに等しい。15分を切れば、箱根駅伝に向けて強化を進めている大学から間違いなく勧誘が来る。14分30秒台であれば、放っておかれることはない。
どこの大学で競技を続けようかと考えていたが、テレビで見た箱根駅伝で東洋大の選手が思い切りのいい走りをしている記憶が強く、他の高校の先生が東洋大学の卒業生で相談したところ、すぐに大学からコーチがやってきた。そうした縁もあって、東洋大学に進学を決めた。
年が明けて大学進学を控えた一月、柏原は毎年広島で行われる「全国都道府県駅伝」で今井とチームメイトになった。同じ福島県が生んだスター、しかも太平洋岸の浜通り出身の先輩は憧れの的だった。柏原は今井にいった。
「箱根では五区をやってみたいんですよ」
先輩への“告白”だ。
「やりがいはあるよ。でも、いろいろな意味で人と差がつく区間だからね」
と今井は答えてくれた。
やる気が出た。やってみたい。走ることに、より前向きになれた。上京するにあたっては、福島の人たちから、大切な言葉をたくさんもらった。高校の恩師からは、
「一年生から結果を残せないようじゃ見込みはないぞ」
と発破(はっぱ)をかけられた。
その言葉を大切にして、大学に入ってからもがむしゃらに練習した。入学して早々の関東学生インカレの10000メートルで、日本人選手では最上位の結果を出した。一年生だからという甘えは一切なく、とにかく前に見えるものをドンドン抜いていく――。それが柏原のスタイルだった。
秋になり、体育の日に行われた出雲駅伝は一区で区間二位(日本人最上位)。十一月の全日本大学駅伝でもエース区間のひとつである二区を任され、区間賞を獲得した。一年生ながら、学生長距離界の「注目株」として柏原の名前は浸透していた。そして全国区になったのが二〇〇九年の一月二日である。
今井に告白してから、まだ一年も経っていない。秋口から五区に起用されるのは確定的となっていて、その準備を怠りなくやってきた。出雲では総合五位、全日本でも総合四位と上位につけていたから、東洋大は箱根でもダークホースの扱いを受けていた。
ところが、チームは出遅れた。柏原がタスキを受けた時点で、トップの早大から4分58秒差の九位。常識的に考えて、ひっくり返せるタイム差は2分半がギリギリ。おそらく、箱根に関係した人であればあるほど、この常識に囚われていたはずだ。しかし、例外がいた。
柏原である。
前に出てくるランナーをとにかく抜く。ロールプレイングゲームのように、ひとつひとつの難所をクリアしていく感覚だ。それまでは全力で突っ走る!
面白いことに、山に入ってからだと、前から落ちてくる選手の背中があっという間に迫ってくる。抜くときだけ、相手の表情を見て余力があるかどうか確認したのだが、あとから聞くと、それが睨(にら)んでいるように見えたようだ。そんなつもりはない。レースの駆け引きの一部として、相手の表情を読んだまでのことだ。
常識に囚われないゆえの、追走劇。ついに、トップを走る早稲田の姿を視界にとらえた。
エンジのユニフォームが大きくなる。追いつける。抜ける――。ダメだ。これ以上、ギアを上げられない。
これまで何も考えないでとにかく山を攻め上がってきたから、もうガソリンが残っていない。
柏原はちょっとだけ、自分に休むことを許した。少しだけ並んで走り、ひと息つこう。呼吸を整え、充電してから、また走るぞ。
追う者と、追いつかれた者のメンタリティーの差も出た。程なくして柏原は早稲田を抜き去って、トップに立ち、芦ノ湖のゴール地点に飛び込んだ。
柏原のタイムは、1時間17分18秒。
今井が持っていた記録を47秒も上回る区間新記録だ。今井につづき、福島の人間が新たに「山の神」と呼ばれるようになった。
本稿は冒頭部分の抜粋です。
続きは本書『箱根駅伝 ナイン・ストーリーズ』でご覧ください。
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