寄席に行って、裏切られたことは一度もない。
贔屓の噺家目当てに足を運ぶのだが、必ずと言っていいほど意外な面白さに出会えるからだ。それは若手の落語家だったり、色物の芸人だったりして、そんな発見があると儲けた気分になれる。
同じように、野口卓さんの『ご隠居さん』シリーズでは、必ず意外な面白さに出会える。
二〇一五年四月に刊行されたシリーズ第一作『ご隠居さん』では、柳家小満ん師匠が解説を書いていることが示唆するように、話の展開上、寄席が重要な役割を果たしている。そこは江戸の風俗、言葉、商習慣に触れられる場所であり、とある夫婦にとっては人生における大切な空間でもあった。
今回の第二作『心の鏡』もまた、寄席で噺を聞いた気分になれる作品だ。七十歳を越えた野口さんの「話術」は冴え渡っている。
そもそも野口さんの作品に出会ったのは、団塊世代の目利きの先輩から、
「『軍鶏侍』ってのが、面白いぞ」
という話を耳にしたからだ。二〇一一年のことである。しかもこの作品で、六十七歳で時代小説家としてデビューというから驚いてしまった。
すぐに、のめりこんだ。
『軍鶏侍』は、豊かな自然に恵まれた南国、園瀬藩を舞台にしている。主人公・岩倉源太夫は軍鶏を飼っているが、闘鶏から秘剣「蹴殺し」を編み出す。
御家騒動から少年たちの成長、そして家族の物語が展開していくが、『軍鶏侍』シリーズは“深化”を見せ、シリーズ六作品目となる『危機』では、一発の花火をきっかけとして、園瀬藩内部の動揺が書かれる。これは江戸時代の「安全保障」の問題を扱った作品であり、外敵の脅威による過剰反応という現代的なテーマが浮かび上がってくる。それは平成の日本の政治状況を表しているようで、『軍鶏侍』は作品としての深みを見せ始めている。
『軍鶏侍』が本格派とするなら、二〇一三年から刊行が始まった『北町奉行所朽木組』は、「口きかん」と渾名される定町廻り同心・朽木勘三郎を主人公にした捕物帳だ(私は十八代目・中村勘三郎を連想しながら読んでしまった)。
「朽木組」の魅力はストーリーのスピーディな展開と、チームプレーにある。同心と岡っ引き、そして配下の者たちの仕事が丹念に書かれ、まさに、群像劇としての面白さを発揮する。
軍鶏侍と朽木組は表裏一体の存在だ。地方と江戸。藩政と町方。ふたつの世界が並行して野口さんの世界を作っていたところに、二〇一五年、意外な演(だ)し物が登場した。
『ご隠居さん』である。
「鏡磨ぎ。カガミ・トギー。ピッカピカに磨ぎます磨きます。いくら自慢のお顔でも、鏡が曇れば映りません」
という呼び声で、江戸を流す鏡磨ぎの老人、梟助。梟助は鏡を磨ぎながら、お得意先で噺を披露するので、それを楽しみに待っている人たちがいる――。
それにしてもまさか、本格時代物の雰囲気を醸し出していた野口さんから、江戸の市井を舞台にした作品が生み出されるとは想像もしていなかった。だからこそ、私は静かに興奮した。どんな物語が読めるのだろう、と。
大当たりだった。果たして梟助がどんな“噺”をしてくれるのか、作中で耳を傾ける登場人物たちのように、私も梟助じいさんの噺の意外性に魅了された。
特に歌舞伎、落語の題材でもある『皿屋敷の真実』には、日本にはいろいろなパターンの皿屋敷伝説があることが示される。それだけでも大きな発見なのだが、なぜ女性が皿を割ってしまったのか、その心理を梟助じいさんとお得意先のお嬢さんが読み解いていくことで、人生に新たな発見がもたらされる。
野口さんの教養が垣間見られ、さらには登場人物への愛情が込められた作品だ。