黒川博行のキライな言い回しをあえてつかうなら、スターリニズムの東洋的変種としての独裁国家内部を小説で描くのは、困難きわまる作業である。なぜなら第一に、緻密な取材は不可能に近い。第二に、小説の連載されていた時期も当の独裁国家は傍若無人に機能していたのだから、測定不能の圧力が予想される。
黒川博行は苦労話をしない人だし、われわれの会話はいつもギャンブルか、よりたわいない方向、より安直な方向へ流れていくので、そのへんはほんのわずかしか耳にはしていない。それでも地雷原を歩く話を聞くようなものではあった。
だが、この挑戦は見事に成功した。たとえば、北朝鮮に二度目に侵入した際の、中国との国境近くでの主人公ふたりの会話。
「国境て、いったいなんですかね」二宮は桑原にいった。
「国と国の縄張りの境目や。地図に線ひいとるやろ」
「一筋の川を挟んで、こっちは豚の飼料を食い、あっちは豚の肉を食うてる。なんかしらんけど、おれは割り切れへん」
(中略)
「国境てなもんは地形や民族で決まるもんやない。そのときどきの喧嘩の強さで上にも下にもずれるんや」
ここで私は唸った。極道の視点から語られるこのセリフはパワーポリティクスの急所を突いているが、感嘆するのは小難しい言葉をいっさい用いていないところである。小難しい言葉をつかうほうがはるかにラクなのだが(私もこのクチである)、じつのところ、そっちのほうがあまり頭がよろしくない。
この手法は全篇に一貫し、「成分」によって成立する階級社会の姿や市民生活のディテール――このさまざまな描写も、これだけかの国の情報があふれるようになった現在でさえ、知られていないことが数多い――が地の文とプロットに溶けこみ、理屈抜きにすっと頭にはいってくる。同業者として断言してもいいが、これは情報処理の高度な知的操作である。同時に、いっさいの社会的関心から遠い、かの桑原をして怒りをにじませる体制の理不尽なありようへの作者の静かな怒りが伝わってくる。
ここでは逆に、黒川博行の不器用さが生きている。黒川作品の大阪弁による会話、とくに庶民や極道の会話は、書き手の性格同様、まったく格好をつけず活き活きして類がない。考えてみれば、それは北朝鮮を舞台にしたところで、大阪人ふたりをかの地におけば、成立するのだった。これに気づいて、私は唸ったのである。この着眼こそ黒川博行の面目躍如であって、余人に真似のできない企みが隠されていたのだった。といえば黒川博行は「ちゃう。ちゃう。そんなもんやあらへん」と否定するだろうから、べつの言い方をするなら、優れた小説家の本能が無意識になした業といえるかもしれない。
もちろん本書はエンターテインメントである。それもミステリーや冒険小説、ハードボイルドの枠にもおさまり切らない広がりを持ちながら、一気に読めるおもしろさをあわせ持つエンターテインメントである。プロットの意表をつく展開、スピード感にくわえ、会話の妙がある。また中国から北朝鮮への密入国の手伝いをする行商の爺さん、北朝鮮内部にあってなお侠気を失わないゴロツキの親玉など、脇の登場人物へのこまやかな目配りもいきわたり、じつに魅力にあふれた物語となっている。笑いを噛みしめつつ、休むことなく最後までページをめくらせる力を持つ小説はそうそうあるものではないだろう。
内輪誉めではない。本書『国境』はまぎれもない傑作である。
二〇〇三年九月
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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