本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
藤原正彦が書き継いだモラエス――それは父新田次郎の内なるサウダーデ

藤原正彦が書き継いだモラエス――それは父新田次郎の内なるサウダーデ

文:縄田 一男 (文芸評論家)

『孤愁〈サウダーデ〉』 (新田次郎・藤原正彦 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

東京の町はいつまでも此儘ではありません。町は必ず綺麗になります、路も必ず広くなります。東京は近き将来に於て、必ず立派な大都市になり得ることを私は信じて疑いません。しかしその時になっても、東京の町を歩いている人の顔が今日のようであるか何うか、それは私にも判りません。(岡本経一編『綺堂年代記』)

 日本の美しさや人々のありさま――綺堂が恥じた部分にさえ――を愛した外国人は決して少なくない。

 モラエスは確実にその一人であった。

 しかしながら、そのモラエスを描こうという新田次郎の思いは志半ばで途絶えた。

 一九八〇年二月十五日、新田が心筋梗塞で倒れ、帰らぬ人となったからである。

 作品は、未完のまま一九八〇年七月、文藝春秋から刊行された。それ以来『孤愁 サウダーデ』といえば、新田次郎ファンなら知らぬ者とてない作者の絶筆として語り継がれてきた。それが〈新田次郎生誕百年〉となる二〇一二年の十一月、息子の藤原正彦が書き継ぎ、三十二年の時を経て完結を見たのである。

 そして本書を読みながら、私は時々、涙ぐんでしまった。何故なら藤原正彦が書いた後半、全体の四割ほどが、父、新田次郎の書いた後を受けて何の違和感もなく続いていたからである。

 父の死の翌日、毎日新聞からのインタビューを受けた藤原は、

「父が精魂を傾けながら絶筆となってしまったこの作品を、必らずや私の手で完成し父の無念を晴らすつもりだ」

 と、半ば憤怒に駆られていったという。

 が、それは容易な道ではなかった。

 まずいちばんに三十代半ばの自分が、父の心境に達しているのか心許なく、父の取材した地をすべて訪れ、父の読んだ資料をすべて読み、没後に出版された資料を大量に集め目を通した。これを多忙な大学の教員生活の中で行うのだから、あっという間に三十年が経ってしまったという。

 この間、ポルトガルへ三度、マカオへ一度、長崎へ二度、神戸へ四度、徳島へ十数度訪れ、目を通した資料は数千ページとなり、父の執筆した年齢になって本格的に書きはじめたとのこと――書きはじめてすぐ、父のようには書けないと悟った、と藤原は記しているが、こうした執筆に到る行程の中、父は充分、息子の中に棲みついていたのではあるまいか。

 そして完結したのが千五百枚の大作である本書というわけだが、この作品は、第十八回ロドリゲス通事賞を受賞した。

 読者の方々には耳慣れない賞だと思うので、説明しておくと、この賞は、ポルトガル大使館の元翻訳官である緑川高廣氏の基金によって、一九九〇年に設立されたもの。日本で出版されたポルトガル人作家の翻訳本やポルトガルに関するテーマの作品に与えられる。

 賞の冠となっているロドリゲスは、少年の頃に来日し、欧州人随一の日本通として知られ、秀吉や家康の知遇を得、『日本大文典』や『日本小文典』等の著作で知られる有名なポルトガル通事かつ教師であったという。

 さて、それでは最後に、題名となっている“サウダーデ”について触れておきたい。

 新田次郎は、前述の談話の中で、

「(ポルトガルで)百人ぐらいの人にその意味を聞きました。ある老婆はマカオで働いている息子を想うことだといい、ある老人はパリで働く二人の娘を想っている。また死んだ息子や夫を想っている人もいる。若い娘に聞いたら、恥ずかしくて答えられないという。十三歳のホテルのボーイに聞いたら、恋人のことだという。ノスタルジーであり、メランコリーであり、物や人への愛着でもある。全体に通じるのは喜びの含まれた哀しみ、とでもいうのか、ポルトガル人にしか理解できない感情らしい。それも一人々々の感じ方で違うんです」

 といい、

「モラエスは故郷へのいとおしさ、懐かしさを込めて日本を愛していたようだ。故郷へ帰らないことによって、サウダーデを強調したかのようにも思える。感傷的といってしまえばそれまでだが、モラエスはもっと深いものを持っていた人ではないかという思いがしてきましてね……(後略)」

 と続けている。

 サウダーデ、すなわち、精神的二重国籍者――私にはふとそんなことばが頭に浮かんだ。

「私の遺体は日本の火葬場で荼毘に付され、キリスト教の関与なしに埋葬されること」

 というモラエスの遺言はどうであろうか。

 そして晩年、病状が悪化する中で、モラエスの逆説的な生きる支えとなるサウダーデ、すなわち孤愁。私は藤原正彦が、モラエスの最期を、この作品を志半ばで中断、急逝した父に重ねているような気がしてならなかった。

 何故なら、日本の山岳小説の第一人者たる新田次郎の遺品を入れた記念墓は彼が愛したスイスのクライネシャイデックにある。

 藤原正彦が書き継いでいったモラエスの最期――それは、父新田次郎の内なるサウダーデの発見ではなかったか。

 私にはそんな気がしてならないのだ。

文春文庫
孤愁〈サウダーデ〉
新田次郎 藤原正彦

定価:1,265円(税込)発売日:2015年05月08日

プレゼント
  • 『赤毛のアン論』松本侑子・著

    ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。

    応募期間 2024/11/20~2024/11/28
    賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様

    ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。

ページの先頭へ戻る