2004.04.20 書評

〈特集〉「坂の上の雲」
ワイパーの向こうの司馬さん

文: 吉田 直哉

『坂の上の雲』 (司馬遼太郎 著)

〈特集〉「坂の上の雲」
〈インタビュー〉10分でわかる日露戦争 半藤一利
日清・日露戦争寸感 中村彰彦
・ワイパーの向こうの司馬さん 吉田直哉

吉田直哉
1931年、東京生まれ。東京大学哲学科卒。53年、NHKに入局。90年に退職するまでにドキュメンタリーとドラマの両域で次々と新形式の番組を演出、数多くの賞を受賞。
『発想の現場から』など著書多数。

『坂の上の雲 一』 (司馬遼太郎 著)

 一九八九年、私は、テレビの仕事で司馬遼太郎さんとヨーロッパへ旅するという幸運に恵まれ、当然のことだがその間じつに感服することが多かった。些細なことでも司馬さんの反応やそこからの発想は、周囲とかなりちがうのである。

 ヨーロッパでは、隣りの国の人びとに対する痛烈な小話が多い。司馬さんはこのての話にいつもただならぬ興味を示されたのだが、アイルランドとイギリス、フランスとドイツ同様、オランダとベルギーの応酬もかなりのもので、たとえばオランダ人はどうしようもなくケチだというベルギー側の悪口として、酒場の勘定をどっちが払うかで口論した二人のオランダ人が、ついにバケツの水に顔をつっこむ賭けできめることにしたというのがある。あんまり長いから行司役のバーテンダーが引き起こしてみると、両方ともとっくに息絶えていたというのだ。

 これに対してオランダ側は、簡潔にこう応じる。

「水割りのグラスを持ったまま腕時計をみて、ズボンを濡らすやつがいたら、それはベルギー人だ」と。

 司馬さんはバーでこの小話をきいたとき、まさに左手に水割りのグラスを持っておられたのだが、驚いたことに即座に腕時計をごらんになった。グラスは逆立ちし、中身はぜんぶ、みごとにズボンの上にこぼれたのである。まわりがあわててナプキンだ、ハンカチだと騒ぐのを尻目に御本人は平然と、しかし感に堪えないという表情で言われた。

「これは実話にもとづいていますな。想像でこの話は生まれない」

 たしかに時間をみるためには手首をひねらなければならず、それはまさに中身をこぼすための角度と同じである。想像でそれに気づきにくいというのも事実だろう。でもじっさいに実験してみるひとはめったにいないのではないか。おそるべき実証主義だと舌を巻いたのである。

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坂の上の雲 一
司馬遼太郎・著

定価:本体1,600円+税 発売日:2004年04月12日

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