2004.04.20 インタビュー・対談

〈特集〉「坂の上の雲」
10分でわかる日露戦争
半藤一利(作家)

聞き手: 「本の話」編集部

『坂の上の雲』 (司馬遼太郎 著)

〈特集〉「坂の上の雲」
・〈インタビュー〉10分でわかる日露戦争 半藤一利
日清・日露戦争寸感 中村彰彦
ワイパーの向こうの司馬さん 吉田直哉

『坂の上の雲 一』 (司馬遼太郎 著)

――日露戦争は、明治三十七年(一九〇四)二月十日に宣戦布告という百年前の戦争ですが、そこにいたるまでの事情から教えてください。

 近代日本の国防を考えたときに、朝鮮半島を防波堤にするという国防論がつねに出てきます。地勢的な問題です。

 一方の帝政ロシアでは、冬になると港が凍るんです。不凍港が欲しいという強い希望がずっとありました。

 そこで、近代日本が出来上がって間もなく、このロシアの南下政策と衝突する。それが具体的に現れたのが、日清戦争に日本が勝って、とりあえず清国から権益を得たときにおきた三国干渉です。

 あれはロシアが主導権をとってフランス、ドイツに働きかけて、日本が清国から奪った権益を返せ、日本が権益を奪うことは世界平和のためによくない、と。日本はそれに対して歯噛みをした。伊藤博文が言うように、この問題は軍艦の数と大砲の数で話し合うしかない、と。要するに軍事力に劣る日本が、列強を相手に戦争など出来ないのだから、ここは涙をのんで……と遼東半島を返上したら、三国はそれを分け合ったわけです。ロシアは大連、旅順をとった。それから、朝鮮半島をめぐって日本は帝政ロシアと対決するようになったわけです。

 有名な「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という言葉が象徴する苦節の十年が明治二十八年から始まるわけです。ほんとうに日本人はよく頑張ったと思います。夏目漱石は国立の学校の先生でしたから、建艦費を月給から毎月差し引かれ、大いに嘆いています。

 日本は国防を本気で考えた。日清戦争後、国家予算の約四割以上を軍事に使っています。軍艦と兵力増強のためです。

 ところがその間に、帝政ロシアは南下政策をあらわにしてきて、北清事変では、いっきにアジアにおける兵力を約十七万人にしています。当時の日本の兵力は十万人足らずですから、日本よりはるかに多い兵力をアジアにもってきている。

 日本に対抗策はあるのか。そこにイギリスが浮かびました。

 イギリスは、ロシアが満州の広野に大兵力を置いているのを危険視して、日本を防波堤にしようと考えたのでしょう。そこで日英同盟の動きが出てきました。これは、ロシアがもっとも好まないことですから、戦争になる可能性がある。だから、むしろロシアと直接話し合って、満州をロシアに任せ、朝鮮半島まで出てこないでくれという、日露協定を結んだほうがいい、というのが元老・伊藤博文の考え方です。ロシアは強すぎるから、話し合いを進めたほうがいい、と。

 それに対して元老・山県有朋小村寿太郎外相という対ロシア強硬論者は、イギリスに近づいてゆきます。そこで日本の政策はイギリスか、ロシアかということでもめるわけです。

 そんなときに伊藤博文が、「俺がロシアと話をつける」と言って、ロシアに行きます。伊藤は当時、首相ではありませんが(ときの首相は桂太郎)、政界には隠然たる大勢力を持っていました。伊藤がロシアに行っている間に小村寿太郎はうまく駐英大使を使って、いささか強引に日英同盟を結びます。

 ロシアはこれを知って、以前にも増して強硬に軍隊を送り出していきます。さらに、朝鮮半島に砲台まで作る。そして日本に「満州には絶対に手を出さない、朝鮮問題にも関心がないことを世界に表明しろ」と、ひどく強硬な条件を突きつけてきます。それに対して日本が「もう駄目だ」と考えだしたのが明治三十六年の夏です。山県有朋の小田原の別宅に幹部が密かに集まって、いわゆる日露交渉を始めることを決めます。太平洋戦争の前の日米交渉と同じです。両国の条件を突き合わせるわけです。

――その頃の非戦論者の本音は、ことを構えるにはまだ軍備が十分ではないということだったのですか。

 もちろんです。首相の桂、元老で陸軍元帥の山県有朋、それから元老の伊藤博文、全員非戦論者です。強硬論は外相の小村寿太郎。軍部は海軍大臣の山本権兵衛あたりはかなり強い意見を出していますが、軍艦が高価なんですね、だから非戦論者です。政界と軍部のトップは、ほとんど非戦論者です。

――この国力では勝てないということを国民は知らされていたんですか。

 いや、兵力までは知らされていなかった。ただ、日本は「臥薪嘗胆」で頑張って軍艦も造ってきたし、兵隊さんも訓練してきたから、相当の軍隊が出来ていると国民は思っているんです。実際は、日清戦争のときよりやっと六個師団多く作って、全部で十三個師団になりました。

――その頃の一個師団というのは、どのぐらいの兵力ですか。

 戦時編成で一万五千人と見ていいでしょう。日清戦争のときは七個師団で十万人余りの陸軍です。それを十年間かけて一生懸命に増やしていって、六個師団多い十三個師団にしたんです。ほぼ倍にした。これが日露戦争開戦直前の兵力です。兵隊さんの数は、他に衛生兵とかも加えますから、二十四、五万人になります。一方のロシアは七十三個師団で、陸軍は二百万人です。

 海軍は日清戦争のときは総トン数が約六万トンで、それを建艦、建艦で増やしていってやっと二十五万トンにしたんです。十年間で四倍強です。そのぐらい頑張って造ってきたんです。「臥薪嘗胆」の思いをしているから、ジャーナリズムはかなり好戦的です。

 ロシア艦隊に勝つための兵力として頑張って造ってきたんです。ロシア艦隊は、戦艦の数は日本の二倍。日本は戦艦を六隻造ったんですが、ロシアは十二隻。巡洋艦は日本が六隻、ロシアは十隻。ところがロシアはヨーロッパ方面とアジア方面の二つに分かれていたから、二つに割るとだいたいアジア方面で戦艦六対六、巡洋艦も六対六。それで日本は「六六艦隊」を目標にして造ったわけです。

 そういうことで日露交渉を始めますがなかなかうまくいかない。日本はどんどん追い詰められていく。どうすべきか、と御前会議をやります。四回やる。太平洋戦争のときも四回やります。

 結局、御前会議をやるたびに駄目だ、駄目だとなるが、といって国力はない。本当に戦って勝てるのか、その検証にたいへんな時間がかかります。開戦したらバルチック艦隊が来るのは分かっていますから、旅順艦隊だけだって互角なのに、バルチック艦隊が来るまでに旅順艦隊を叩けるのか。最後の決意をすることになったとき、のちに「日進(にっしん)」「春日(かすが)」となる船がイタリアで造られていたのですが、アルゼンチンが発注後売却したがっていることを、イギリスが同盟国の日本に教えてきます。それで軍艦の数は多いほどいいと、「日進」「春日」を大枚はたいて買うわけです。その「日進」「春日」が日本にいつ着くのか。間違いなく日本に着くと分かった瞬間に開戦するんです。それを最後の御前会議で決定した。正式には二月十日に宣戦布告です。ところがその前に日本は旅順港外や仁川沖でロシアの船とぶつかったので攻撃していますから、火蓋を切ったのは二月八日です。

【次ページ】旅順攻略戦の不可解

坂の上の雲 一
司馬遼太郎・著

定価:本体1,600円+税 発売日:2004年04月12日

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