さらに、常人ではなかなか経験できないような出来事を引き寄せ、遭遇してもいる。それを、稀代のストーリーテラーたる構成力と筆力、持ち前の温かな人間性をもって小説にしてゆくのだから、これが面白くないわけがない。
私をはじめとする凡人は、高橋氏ほど詳細な記憶を持たない。いや、私たちの記憶も脳内に存在してはいるのだが、それを高橋氏ほどの鮮やかさでアウトプットすることができない、と言ったほうが正確かも知れない。
ゆえに、多くの書き手にとって記憶だけで小説を仕上げることは不可能である。だからと言って、記憶の不足をフィクションで補おうとすれば、安易なつじつま合わせに陥る可能性も否めない。おそらくはそのあたりが、高橋氏が「最近、自分の経験を中途半端に小説にしている書き手が多い」と感じている所以でもあるのだろう。
次の稽古日に『幻日』を読み終えた旨を告げると、氏は言った。
「だから事実だけでも、小説を書くことは可能なんだよ。フィクションが苦手だと言う君だって、その気になりさえすれば小説を書けるはずなんだ」
書くことを語るとき、高橋氏の口調は熱を帯びる。確かに、事実だけでも面白い小説が書けることを『幻日』は証明している。
ただしそのためには、観察眼と記憶力、構成力と筆力を、どれほど鍛えればよいのだろう。今の私には、見当もつかない。が、高橋氏のように真摯に記憶と向き合い、アウトプットを試みてゆけば、自分でも忘れかけていたかけがえのない過去の時間を、鮮やかにとり戻し、文字として残すことは可能なのではないかと、少しずつ考え始めている。
さらに次の稽古日、高橋氏は私を呼び止めると、またおもむろにカバンから本をとり出した。『眠らない少女』だった。
「では今度はこれね。こっちはフィクションだけど、『幻日』のなかの「あいつ」という作品のエピソードが、この本のなかの「卒業写真」に使われているから、読み比べてごらん」
ご本人のナビゲートでその小説世界に誘われるとは、私はなんという果報者だろう。
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