高橋克彦氏は、カバンから『幻日』をとり出しながら言った。
「この本に書いてあることは、九十九.九パーセント事実だから」
その表紙をぼんやりと眺めつつ、私は心のなかでつぶやいた。
(すると『幻日』とは「現実」との掛け言葉になっているわけか。つまりこの小説は、ほとんどノンフィクションなのだ)
ノンフィクションと小説の違いは、言うまでもなく事実のとり扱い方にあり、小説ではフィクションが許される。
そして私が思うに、ノンフィクションと小説の双方を自在に書き分け、存分に読者を楽しませ得る書き手は、じつのところそう多くない。もしもいたとして、それは天与の才能に恵まれたごく少数の天才と言えるだろう。
ましてや、すでにフィクションの大家であり、エッセイもこなす高橋氏が、九十九.九パーセント事実である『幻日』を執筆し、それが十分に面白いとなれば、そのことは氏にとって、まぎれもない天才の証しとなろう。
だが、むろん高橋氏は、自らの才能を世に知らしめるために『幻日』を書いたのではない。あまたの賞を手にし、作家としての頂点を極めたとも言える氏だが、書くことに関して傲慢なところは微塵もない。むしろ、謙虚で生真面目な印象さえ受ける。
「最近、自分の経験を中途半端に小説にしている書き手が多いような気がしてね。しかも読み手が、それを受け入れてしまっている。この本を書いた動機は、言ってみればそういった風潮に対する反発かな」
高橋氏は、岩手日報社の公募文芸誌『北の文学』の編集委員を務めてもいる。『幻日』に込められた事実に対するストイックなまでの真摯さは、後進へのメッセージでもあるようだ。
私ごとで恐縮だが、筆者は筋金入りの現実主義者である。
大学では昆虫学を学び、虫や自然に関するエッセイで、日本エッセイスト・クラブ賞をいただいた。それを機に、文章を書いて暮らすようになり、今は絵本作家としてテキストを手がけている。
その絵本の世界においても、事実のとり扱い方によって大きく二つのジャンルが存在する。世のなかに実在する事象を易しく紹介する科学絵本と、空想世界を舞台にして主人公の成長を描く物語絵本とだ。
科学絵本はエッセイに、物語絵本は小説に通じている。そして現実主義者の私は科学絵本を得意としており、たまに物語絵本を書こうとすると、我ながら哀れなほど四苦八苦してしまう。どうやら私は、わずかに持ち合わせた夢やロマン、想像力を、虫や自然を知ることに使い果たし、空想世界を構築する力を失っているらしい。