佐藤さんは天才だ。
彼女の物語を読むたびに、いつもそう思います。いつも、必ず。
私も作家の端くれですから、他の作家のプラチナのような輝きに触れたら、落ち込むはずなのですけど、なぜでしょうね、佐藤さんの物語に打ちのめされた後は、妙にすがすがしい。落ち込むというより、元気になる。
これは佐藤さんのデビュー作『サマータイム』を読んだときからずっとそうで、本書『聖夜』でも、本を閉じたとき、長いこと忘れていた、生きていることの静かな歓びが胸の底にひろがりました。
一哉が感じた〈神〉、私たちのうちに在るそれを感じて、聞いたことのない音を確かに聞いて、身体の奥底の細胞のひとつひとつが、かすかな光を放ちながらふるえている。そんな心地になったのです。
文章だけで、読者をそういう心地にさせることが出来る人なのです、佐藤さんは。
本書の主人公一哉と同じように、私も中高はミッション系の学校に通ったので、朝は礼拝があり、聖書の時間もありました。いまも私は神というものがよくわからないけれど、当時はとくに、キリスト教の神、唯一の絶対神という概念が苦手でした。
理屈としてわからない、ということもありましたが、いま思えば、大人たちが厳然と揺るぎない何かが在るということを前提として、そこから見おろすように言葉を発するのを聞くたびに、なんでそんな風に語れるのだろう? と、反発していたような気がします。
神が本当に絶対的な創造者なら、なぜこの世は「全きもの」ではないのか。これほど不完全で、哀しみと不条理に満ちているのに、それを、神が与えたもうた試練だと納得しようとするなんて、随分と、神さまに都合よく解釈してあげるものだと思われてならなかったのです。
そう思う一方で、そう思わずにはいられない願いのようなものも感じていました。
でも、そういう「理屈」にがんじがらめになっていたわりに、あの頃も私なりの〈光〉のようなものを垣間見る瞬間はあったのだと、『聖夜』を読んでいて気づきました。
それを一番感じさせてくれたのは、歩道橋のシーンです。
別に、この歩道橋を通らなくても駅には行けるのだけど、車も人も何もかもが、ワンサイズ縮んだ見知らぬオモチャのように見える、この半端な高みに時々上りたくなる。車の排気音やクラクション、人の話し声や笑い声を聞き、排気ガスと飲食店の油や調理やゴミの匂いを嗅ぎ、通行人が揺らす歩道橋の振動に身を任せる。
このすべてを、一哉は「なぜか、意味のない、生命のない、無機質な景色」で、この世のいっさいが自分には関係ない気もしてきて、それに安堵するのです。
妙に安心する。白々と安心する。乾いている。砂のような感触だ。何もかもが。さらさらさらさらと。
この「白々とした安心」を、私も知っている。そう気づいたのです。
だからこそ、その後で彼が感じる、ふいに音が連なって、あ、曲になりそうだな、とわくわくする感覚、しぶとくトカゲのように生きているジイサンが実在する世界には何か意味があるかもしれないと思う気もちを、自分のものとして感じたのでしょう。
あの頃の私にとっても、そういうものが、ただひとつ、世界の意味として信じられそうな何かでしたから。
ああ、あの頃に、読みたかったな、『聖夜』を、と思いました。
こういう表現に出会っていたなら、あの頃の私は、随分と救われただろう。上からの「すでに神ありき」の言葉ではなくて、むしろ下からの、ギリギリの生の言葉だから、素直に心に入ってきたはずです。
棘がいっぱい生えた外套の下に、時折ぱっと、無垢でまっとうな色、哀しくなるほど切実な願いの光が見えて、その光が、もう少し長くこの子を照らしてくれたら、と思いながら読んでしまう。
だから、天野がいてくれて、本当にうれしかった。彼女が真っ先に一哉に目をやり、花が咲くように笑うと、私まで涙が出そうになる。胸が熱くなる。
そして、しみじみ思うのです。佐藤さんは天才だ、と。
決して重なることはなかろうと思うようなバラバラの個性が、いつしか重なり響き合う奇跡の瞬間を、嘘をつかずに書いてしまう人なのだ、と。
『一瞬の風になれ』では、ひとりひとりの手を重ね、バトンを連ねていくその瞬間に、まばゆい光が広がってみえました。
本書では、あとから来るメロディに追われて逃げながら、いつしか連なっていくフーガのように、無意識に逃げていた一哉に、様々な人が追いつき、響き合っていきます。
文字の連なりから、ふいに立ち上がる一哉の歓びが胸を打ち、私は泣きたくなってしまうのです。
一瞬響き、消えていく、呼気のようなパイプオルガンの音。
その音に、佐藤さんは美しい命の光を見せてくれました。その光は、本を閉じても、まだ、私の心に静かに点っています。
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