──「さざなみ軍記」は、〈平家某の一人の少年が書き残した逃亡記〉という形式をとった作品です。この短篇集に収録されている「楓日記」には、「さざなみ軍記」の影響が窺えます。せっかくですので、デビュー当時のお話をもう少し詳しくお聞かせください。
北原 当時の新潮新人賞は同人誌の推薦が必要でした。で、同人誌を通して応募したのですが、受賞するなんて思ってないでしょう? たまたま書き上げた時代小説を、本屋さんで立ち読みした小説現代新人賞に応募しちゃった(笑)。それが佳作入選して、しかも評判がよかったんです。
──しかし、「新潮」でデビューした北原さんが、なぜすぐに「小説新潮」で書き始めたのですか。
北原 「新潮」のほうは資質として駄目だったんでしょうねえ。同人誌に書いていたものも、大正時代とはいいながら、時代小説の雰囲気だったし、新聞の批評でも、小説現代新人賞の時代小説の方がよかったし。
──当時は、新聞でも新人賞の記事が出たんですか。
北原 ええ。東京新聞や読売新聞に中間小説時評という欄がありました。その評がよかったの。一方、「新潮」の方は評判がよろしくない。安岡章太郎さんには、「有閑マダムがスラスラ書いたものかと思っていたが、実際に会ってみると、結婚もしていないし、子供もいない。これは文学なのだと思った」と評していただきましたが(笑)。悩んでいるときに、川野黎子さんが声をかけて下さって、「小説新潮」で「片葉の葦」「いつのまにか」(収録作)そして、「風鈴の鳴りやむ時」という時代小説を書かせてもらいました。
──それ以降はどうされたんですか。
北原 書いて持って行っても掲載されませんでした(笑)。純文学への思いが残っていたんでしょうねえ。当時の「小説新潮」には、芝木好子さんのように「新潮」「群像」に載っているような方達が書いていらしたのね。だから私も、時代小説で井伏鱒二を追い求めたかったんですね。
──文学を追求したかったのですね。
北原 大げさに言えば、ね。いまにして思えば、大間違いだったと思います。私にとっての小説は、エンターテインメントなんです。でも、まだ若かったし、同人誌内では「こんな物語性が強いものは駄目だ」という批判を浴びる。戦後第一回芥川賞を受賞した小谷剛さんが主宰していた「作家」という名古屋の同人誌の東京支部にも参加していました。同人誌の合評会は刺激になりますが、物の見方が偏るんですね。それもあって、若手四、五人で飛び出して新しい同人誌をつくったこともあります。そういう時代を生きていますから、志向がどうしても純文学になるんですね。