───江戸の名奉行根岸肥前守が、町で起きた不思議な事件を解き明かす書き下ろし時代小説文庫の人気シリーズ『耳袋秘帖』に、人気の脇役だった同心の栗田と家臣の坂巻が、いよいよ戻ってきました。
風野 『耳袋秘帖』は、椀田と宮尾が活躍する「妖談」シリーズ(文春文庫)を四巻、栗田と坂巻が出てくる「殺人事件」シリーズを十巻刊行しました。おかげさまで、読者の方に愛される作品になりましたが、「殺人事件」シリーズは、急ピッチで書き続けたこともあり、なかなか思うように書けなくなってしまい、二〇〇九年十一月刊の『神楽坂迷い道殺人事件』(だいわ文庫)を出してから、少しお休みをいただいていました。気分を変える意味でも、もっと、怪談テイストを前面に出した、おどろおどろしいものを書いてみたいと思って、今度は、当初から構想していた「妖談」シリーズを始めたのですが、その間も、読者の方から、「栗田と坂巻はどうなったのか?」「二人にまた会いたい」という、うれしいお声も多くいただいておりました。ここに来て、どうにか充電が終わりましたので「殺人事件」シリーズを、再スタートできる運びになりました。
───『耳袋秘帖』は、最初に町で起きた不思議な噂話が、同心たちを経由して根岸の耳に入り、彼が合理的に解決していくという形式を取っています。このミステリー仕立ての面白さが『耳袋秘帖』の特徴で、これまでも交換殺人や暗号、安楽椅子探偵に倒叙と、作品にふんだんにミステリー的要素を盛り込まれてきました。今回の『王子狐火』も、「狐」をキーワードにした殺害予告、そして殺人が起きるという謎に満ちた始まりですね。
風野 私の作品を、ミステリーと言ってしまうのは恥ずかしいのですが、不可解な話があって、そこに合理的な解決をつけるという物語の流れは、捕物帖の原型であり、大好きな『半七捕物帳』の影響が大きいと思います。実は、一つの謎を「ああでもない、こうでもない」とこねくり回すというのは、あまり好きではなく、むしろ、一つの謎が解決したら、次から次に、謎が現れてくる。そういう話を書きたいし、読みたいと思っているんです。瞬時に謎を解く根岸というキャラクターも、そういう物語の要請から生まれました。でも、大きな流れの話を書く一方で、一話一話、きっちり解決がつく話を作るのは、けっこう大変なんです。ですから、かき終えた後はいつももっとこうすればよかったという後悔の連続なのですが、今回の『王子狐火殺人事件』の中では、人が犬を噛んだ騒動を書いた「人が犬を」という作品は、会心の一作になりました。
『耳袋』という鉱脈の発見
───奇譚を集めた随筆集『耳袋』を残したことでよく知られる根岸ですが、彼を主役に据えたのは、おそらく風野さんが初めてではないでしょうか。
風野 これまでも、平岩弓枝さんの「はやぶさ新八」シリーズ、宮部みゆきさんの『震える岩』などの「霊験お初」シリーズ(ともに講談社文庫)や、ドラマでも、脇役としては、よく取り上げられてきたのですが、主役として書かれたものがいままでなかったのは、私も意外でした。私はこれまで、歴史上の人物では、寺坂吉右衛門や、勝小吉を主人公にしたりと、一度でいいから、何か当ててみたいといろいろと考えていたのですが、これがなかなか当たらない(笑)。だから、『耳袋』という題材を見つけたときは、正直なところ、快哉を叫びました。高齢化社会が進み、だんだんと老人が増えてきた現代で、同世代の老人のヒーローが生まれたら、読者にも受けるのではないか、という考えもありました。
───『耳袋』という随筆を、最初に読まれたときの印象は、いかがでしたか?
風野 『耳袋』は、千篇を超える随筆が収録されていて、この豊富な資料があればこれは、何巻でも書くことが出来る、面白いものができるぞという確信がありました。『耳袋』には、噂話、不思議な話がいくつも収録されているのですが、その結末や、解決は、書かれていないものも多い。自分は、資料から緻密に物語を組み立てるのではなく、資料から妄想を膨らませるというタイプなので、そこに作家的イマジネーションを働かせられる余地が大きかった。そこで、『耳袋』の話には、実は、根岸だけが知っている別の真相があり、『耳袋秘帖』と呼ばれる門外不出の覚え書を書いていたという設定を思いつきました。
庶民のヒーローだった根岸肥前守
───実際の根岸鎮衛といえば、御家人から町奉行まで駆け上がったいわばシンデレラボーイとして、当時の町人からも人気があったそうですね。
風野 はい。根岸の特筆すべき点は、百五十俵の小身から、南町奉行に上り詰めたことです。若き日の根岸と塙保己一を講談にした「奉行と検校」でも、二人とも、元は百姓の子どもだったという設定ですが、根岸は、元々武士ではなく素性は定かではないという噂は、当時からあったようです。実際に、スリなどを使い、他の奉行とはずいぶんと違ったやり方で、情報を集めていたそうです。また、庶民の噂話を集めたというのも、彼独自の情報収集法の一環だと思いますが、同時に根岸の好奇心が実際に旺盛だったことの表れではないでしょうか。そこを想像で膨らませて、進取の気質に富んだ好奇心が旺盛な人物という設定にしました。
───根岸は、若いころの放蕩で肩に赤鬼の刺青があることから「赤鬼奉行」と綽名されていますが、同じような人物として池波正太郎さんが書かれた長谷川平蔵(鬼平)、遠山景元(遠山の金さん)などを連想させます。それらは意識されましたか?
風野刺青といえば、遠山の金さんですが、彼は根岸より、四十年ほど後の人でして、刺青があったという点では根岸のほうが先なんです。やっぱり、池波さんのお書きになった鬼平は、意識しましたね。放蕩者だった武士が、そのネットワークを生かして自ら探索に当たる、「寛政の改革」の際に松平定信に引き立てられたなど、二人には共通点も多い。ただ、池波さんの場合、鬼平と作者を重ねて語られたり、ご本人も洒脱なイメージがありますが、根岸は、自分とはぜんぜん違う。だからおのずと違うものが生まれるはずだと、そこは開き直りました。
───作品のなかの主人公・根岸肥前守は、大人のひとつの理想形だと思いますが、風野さんのなかでは、根岸はどういった人物として捉えていますか?
風野 自分から一番遠いところにいる人物ですから、作者からすれば、けして書きやすい人物ではありませんね。私自身は、むしろ、栗田や坂巻なんかに近い、もっと卑小な人間で、精いっぱい、背伸びをして理想の大人を書いているというのが正直なところです。もし、自分が根岸に似ているところがあるとすれば、一人の女性に一途なところだけ(笑)。もう一つは、私がダメな人間だからでしょうけれど、できれば、他人には自分と同じように寛容でありたいというところ。その願望が作品中の根岸の性格に投影されているのではないでしょうか。だから、清濁併せ呑むことが出来る根岸の器の大きさにあこがれます。たとえば、根岸が主役の落語「鹿政談」でも、豆腐屋がうっかり殺してしまった鹿を、犬ということにして、不問に付す。そういった、杓子定規にはいかないことも、大局を見て判断しようとするところが、彼の持っているスケールの大きさで、それが大人としての魅力として、人々の心を捉えているのかもしれません。
次作の舞台は佃島
───『耳袋秘帖』でも、人間味あふれる人物たちが登場しますが、このユーモアあふれる人物描写も、風野さんの作品の魅力ですね。部下の二人の掛け合いも読ませどころです。
風野 『耳袋秘帖』の場合、最初に、栗田と坂巻の二人の性格を決めたところで、物語が勝手に動き出しました。今では、下っ引きのしめや、岡っ引きの梅次なんかも、同じように勝手に動いてくれるようになりました。たいした容貌でもないのに、人柄のおかげで、思い人の雪乃と結ばれた栗田と、道を歩けば茶屋の娘が、振り返るほどいい男なのに、思い人となかなか結ばれない坂巻。「殺人事件」シリーズは、坂巻ファンの方が、非常に多いのですが、いい男が、毎回振られるのは書いていて楽しいですね(笑)。一方の、「妖談」シリーズの椀田と宮尾も、同じジレンマを抱えています。女性が苦手なのに、美人が好きな椀田と、いい男なのに不細工な女が好きな宮尾。設定も少し変えています。ただ、私の至らぬせいで、栗田と椀田、坂巻と宮尾の区別が付かないというご意見を、たまにいただきます。へんなたとえですが、栗田が剣道部だとしたら、椀田は柔道部。坂巻がジャニーズ系の顔のきれいな「いい男」だとしたら、宮尾は韓流スターのような男性的な「いい男」だと思って読んでいただくと、より区別が付きやすくなるんじゃないでしょうか(笑)。
───待望の次作についてお聞かせください。
風野 渡し船のなかで殺人が起きる『佃島渡し船殺人事件』を、この秋に刊行予定です。その後も、「殺人事件」シリーズは、年二冊、「妖談」シリーズも、年一冊くらいのペースで、出していければいいなと思っていますので、今後もお楽しみに。
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