江戸時代の画家の中で、目下、絶大な人気を誇っているのが、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)である。その若冲の人物像は、近年一変した。かつては、京の錦市場の青物問屋の長男に生まれながらも、家業には興味がなく、絵を描くことだけに生きた、と語られていた。ところが、錦市場の重大な危機に際して若冲が奉行所などを相手に奔走したことを示す文書が、美術史学者の間でも知られるようになったのである。作品の奇異な趣を風変わりな人柄に結びつけて、さまざまな心理学的ともいえる解釈まで呼び起こしてきたが、そうした論調は影を潜めた。
数え切れない葉をつけていた木が、やがて倒れ、大小の葉が時間のせせらぎを流れて行く。かろうじて目の前に流れ着いた一枚を拾い上げて、見つめる。歴史を検証する作業とは、そんな頼りないものかもしれない。けれども、そんな一枚の葉から生まれる夢想に心を遊ばせることが、歴史小説の楽しみである。手に汗を握る、まるで別世界のような壮大なドラマもあるが、風野真知雄さんの描く歌川国芳の物語は、そうではないだろう。流れ着いた葉を見つめているうちに、せせらぎに反射する柔らかな光を感じ、いつしか、物語の中の人物たちと同じ空気に包まれていくようだ。
そうして私たちが訪れるのは、およそ百六十年前の江戸。嘉永六年(一八五三)から翌年の二年間が、この物語の舞台である。
国芳が江戸の日本橋本銀町の京紺屋に生まれたのは、寛政九年(一七九七)のこと。三世紀にわたる江戸時代が最後の世紀を迎えようという頃だった。少年期から絵に優れた才を発揮し、やがて歌川豊国に弟子入りしたとも伝えられる。三十歳を過ぎた頃に、中国の長編小説『水滸伝』の登場人物を描いたシリーズが好評を博し、人気絵師となった。物語には、それをきっかけに勇ましい図柄の彫り物が流行ったことで、国芳が少し気が咎めている描写も出てくるが、それほどにカラフルで濃密、動きと凄みにあふれた、浮世絵の常識的な感覚を破るものだったのである。
しかしやがて、天保の改革で、浮世絵の業界も国芳も苦難に直面する。飢饉、百姓一揆、外国船の出没をめぐる混乱。経済や秩序の崩壊を食い止めようとする為政者は、対処の一環として風紀の粛正を図る。もとよりご禁制の春画はもちろん、色恋や贅沢な暮らしを扱った読み物や、きれいな色の絵草紙も禁じられた。中でも歌舞伎役者や遊女の錦絵を販売できなくなったのは、大痛手だった。結果的には、他の商品を考えることへと制作者たちを向かわせはしたが、多くの版元や絵師、読本作家らにお上の厳しい目が向けられ、業界は数々の筆禍を被った。国芳も、過料を払わされたり、他の絵師らと奉行所に呼び出され、禁制のものを描かない誓約をさせられている。天保十四年(一八四三)には「源頼光公館土蜘作妖怪図(みなもとらいこうこうやかたにつちぐもようかいをなすず)」という、平安時代の武将源頼光とその家来たち、土蜘蛛や大勢の妖怪を描いた絵が、お上を風刺したものだと評判になり、版元が自主回収するという出来事もあった。